NYC旅日記

Posted by admin - 7月 31st, 2006

今日が学会の最終日、連日お供をしてくれた学会プログラムにもおさらばだ。しかし初っ端からウェンディ・スケーズ教授のアダムに関する発表があり、充実している。彼女はバーミンガムに留学したときの加藤誉子、徳永聡子両博士の指導教授だった人。現在はヴァーノン写本のデジタル化プロジェクトを推進している。そういえば、大きな研究資金の申請前に、いろいろ相談に来ていたことを思い出した。

スケーズ教授の発表後、教室を抜け出して聖書に関するセッションに出て、田口まゆみ教授のすばらしい新発見を含む発表を聞く。教室のまん前にブルーア教授夫妻が陣取っていた。緊張のせいか顔色がすぐれない田口さんだったが、地道な研究成果がよく出ていた。発表後に尋ねてみると、ハイデルベルクの中世英語テクストのシリーズで出版予定とか早く完成させてぜひ博士論文にしてくださいとお願いした。中尾佳行教授の英語学からの発表がこれとぶつかっていて聞けなくてしごく残念。質問が5つも出たというから、成功したのだろう。

午前の後半では、アレックス・ジレスピー博士が構成する写本とテキスト文化というセッションで、アダムに関する発表が3本あり、大いに盛り上がった。最初のバーバラ・ボーダレホは、アダムは写字生であって「カンタベリー物語」写本の編集者ではなかったとの説を力説した。彼女のがんばりに負けなかったのがアレックス、自転車事故の後遺症などないかのような勢いだったが、実際には両足のすねに抜糸の跡が見られた。

午後1時に研究発表が終わり、一番大きな講堂でビュッフェ・ランチを取りながら、日本語でいうなら反省会と閉会式が行われた。普通は最終日の前日の宴会で行われる協力者への謝辞などが、ヨット・クルーズに参加した人数が少なかったために、最終日に持ち越されたのだろう。今回の学会の特徴のひとつは、チョーサーへの関心を高めるには高校でもっと教えるように働きかけることだというウォレス会長の意向で、高校教員を招待し、またそういうセッションも行われたことだ。しかし、宣伝不足もあったのか、わずか数人の教員が参加しただけだった。反省会では高校教員からの率直な意見が出ていた。参加した大学院生からの報告もあった。

もうひとつは、ハーヴァード大のニコラス・ウォトソン教授とスタンフォード大のジェニファー・サミット教授による、学会発表を聞いての感想が報告されたことだ。従来はチョーサーに関する写本研究と文学研究が二分されていたが、今回はアダム・ピンクハーストに関する発見から融合されて大きな成果を生んだという感想に、こちらも思わずひざをうつ思いだった。

午後3時に冷房の効き過ぎた会場での総会が終わった。かなり長い学会だったが、大成功だったと思う。スウォンジーでの再会を約して外に出ると、暑い。いつものように徒歩でホテルに戻りメールをやっていると、すぐ6時になる。古書店を経営するジョナサン・ヒルが半ズボン姿で迎えに来てくれた。

前回つまり20数年前にNYに来たときは、ここにはH.P.クラウス、ジョン・フレミングといった大物古書店があり、年老いたために高騰する古書の値についていけず安い値段のままの多くの写本零葉やアイルランドのシェイクピア偽作を入手することができた。現在は大物古書店が見当たらない。ヒルは50歳代半ば、奥さんは日本人。ヒルが最初に東京で会いにきたのはケンブリッジのデイヴィッド・マキトリック博士の紹介だったらしい。その関係から奥さんと知り合ったといって、感謝された。

ヒルはマンハッタン北部にある立派なアパートに住みながら仕事もしている。瀟洒な内装のたたずまいに感心する。世間話で盛り上がったが、二人が外出用に着替えている間じっくりと古書を堪能した。わたしと同じで15,16世紀の原装本に関心あるヒルらしく、すばらしいザンメルバンド(合冊本)がいくつもあった。しかしつけられた値段も相当なもので一冊も買えなかった。

8時半からフォーダム大学のそばにある高級レストランで、得体の知れぬ西欧・アジア料理を会席料理のように出す夕食を楽しんだ。ワインもとても美味。11時にお礼を言って別れ、かって知ったるブロードウェイを徒歩でホテルへ。11時半にベッドへ。

NYC旅日記

Posted by admin - 7月 30th, 2006

日曜日なので、朝のタイムズ・スクエアはさすがに閑散としている。今日も晴れて暑くなりそうだが、15%と湿度が低いので助かる。マンハッタンは摩天楼のおかげで、道路はうまく歩けば日陰を通って行ける。

日曜日なのですべて30分遅れで始まった。まず「ディジタル・チョーサー」と題したセッションに出ると、ウィキペディアを教室でチョーサー理解のために用いた実験の報告があり、ようやく講義一辺倒の時代からここまで来たかと感慨深い。定年までに一度この方法で授業をやってみたいと思う瞬間だった。ところが質疑に入ると、ウィキペディアとは何か知らない人も聴衆にいた。そして「先日のアダム・ピンクハーストがウィクリフ派の異端論文を転写していたなどの情報は、いつ掲載されるのか」との質問もあった。そこで検索エンジンにAdam Pinkhurst, Wikipediaと入れると、ちゃんとした情報がある。質問内容がいつ書き込まれるか興味深い。

カルガリー大学のチームが「公爵夫人」の集注版をいかにハイパーテキストにするかという発表、ここはガウェイン詩人のデジタル・プロジェクトを推進しており、わたしも顧問の一人なので尋ねてみると、なかなか早くは進んでいないことがわかった。最後はバーミンガムに研究所を開設したピーター・ロビンソン教授の予定だったが、娘さんの結婚式にオーストラリアに行ったとかで、同僚のバーバラが代読した。あいかわらず自分のデジタル版チョーサーのCDの宣伝臭が強かった。このセッションが行われた部屋は冷房の音がひどくうるさく、みな苛立つていた。ブルーア教授まで顔を出しておられたのには感心させられた。

次に出席したのは「チョーサーと15世紀の人文主義」というセッション、イギリスにルネサンスの古典復興の影響がどの程度あったか、を再検証しようという試みだった。若手の発表者が多いセッションだったが、後でデイヴィッド・ロートン事務局長に聞いてみると、各セッションに少なくとも一人は大学院生を入れるという方針をとったためと分かる。そういえば、私が構成したピンクハーストのセッションにもそういった要請がきたが、新発見からわずか2年では院生の入る余地はなく、実際に一人も院生からの応募はなかった。

初めて聞いたケンブリッジのダニエル・ウェイクリン博士の発表はすばらしかった。既に指導教授のリチャード・ビードル博士が絶賛し、紹介してくれていたが、なるほどなと感じた。キャクストン印刷の「チョーサー訳ボエティウス」の現存コピーに残る書き込み、特に英訳の横に書き入れられたラテン語原典の扱いに注目していたので、発表後日本にもこの版は2部ありますよと伝えた。

1時過ぎにセッション終了、待ち合わせていた田口、中尾両氏と大学の外で食事することにして外出するも、インド料理店が閉店していたので、門馬さんと楽しんだメキシコ料理店へ。相変わらず田口さんがよくしゃべる。中尾氏が「高宮さんとゆっくり話して見ると、面白い人だ」という。よほど面白くない人間と思われていたらしい。3時過ぎまで話し込んだ後、二人と別れてホテルに戻り、メールを処理していると5時半になった。

身軽な格好で、47番通りから41番まで降りてから右折、まっすぐ西に歩いていくと、サンセット・ディナー・クルーズの波止場に着いた。42番通りは賑わっているのに、41番通りはいったんは避けようと思ったぐらい、黒人がたむろする危険そうな場所だった。ゆっくり30分かかって到着すると、こちらに手を振っていたのがジョン・ハーシュ教授、この日はイングランド・チームのユニフォーム姿だ。アメリカ人なのにイングランドを応援しているのかと尋ねると、今回のワールドカップで突然サッカーファンになり、ベッカムにほれ込んだという。今日はジョナサン・アレクサンダーをゲストに呼んだから紹介するよ、思いがけないお言葉。

アレクサンダー教授は世界的な中世美術史の大物で、いまHUMIにいる池田真弓さんの元指導教授、イギリス人だが長くニューヨーク大学の教授だった。ヨーロッパ中世美術史をかじった者なら、必ずや彼の著作を読んでいるはずだ。2度ほど挨拶だけしたことがあり、20年ほど前に彼が音頭をとって、ケンブリッジ大学コーパス学寮の図書館長レイ・ページ博士が閲覧者を締め出す蛮行に対してマスターに請願書を出したとき、わたしも署名を請われて送ったことがある。もっともページ博士はびくともしなかったが。

6時から10時半まで、わたしはハーシュ教授、アレクサンダー教授とロマンチックな船上で語り合う稀有な機会に恵まれた。池田さんのことは、可愛くてよくできる学生だとほめていた。わたしにはイギリス人の学者の方が話しやすい。さまざまな話題が出た。教授もキャサリーン・スコット博士のための論文がまだ書きあがっていないとか。編集者が船上にいるかもというと、彼はテーブルの下に顔をかくす仕草をした。茶目っ気もあり、痩身で、なにやらわが恩師イアン・ドイル博士と感じが似ている。

3人で話していて、二人が独身主義者だと知る機会があった。あれと思ったが、下船した後二人がすぐ別れていったのでほっとした。クルーズ船内はチョーサー学会関係者だけで空いている。みな甲板に出てNYの夜景を楽しんだり、ディナーに舌鼓を打っていた。マンハッタンの周りを行ったり来たりするクルーザーが自由の女神の銅像に近づいたとき、これが好きで大きなレプリカを持っている日本人がたくさんいると説明すると、二人は驚いていた。

甲板でウォレス会長、ロートン事務局長らと、今回の学会成功をたたえ合った。2010年以降に京都でやらないか、との話が出たので、それまで生きていればね、と答えておいた。そこへ美しいお嬢さんを連れたアラスティア・ミニス教授が登場、彼が秋にはオハイオ州立大学からエールに移るというおめでたい話を聞いた。力のある学者が一流大学に移っていく実力主義がなぜ日本にないのか、不思議に思う瞬間だった。ミニス教授がいかに日本にきて楽しかったかをお嬢さんに熱っぽく語ると、彼女も行きたいと連発していた。

下船後、アレクサンダー教授と42番通りを地下鉄の駅まで歩いた。70歳を超えて敏速に歩く姿に昔のブルーア教授を思い出した。こちらは駆け足で歩かねばならないほど速かった。学会に参加していたコルヴェ教授やブルーア教授に会いたかったようだが、クルーズにその姿はなかった。楽しいひと時だったねという教授と握手して再会を約し、タイムズ・スクエアに行くと、11時だというのに若者でいっぱい、ウェディングドレスのまま馬車で乗りつける新婚カップルに拍手が送られていた。

NYC旅日記

Posted by admin - 7月 29th, 2006

今朝は9時からの’Honour as a Commodity’のセッションに、恩師ブルーア教授が登場、84歳でおそらく学会史上最高齢の発表か。婦人に付き添われて杖をついて入室、若い発表者と挨拶を交わした後、例によって長々と話した。John Hirsh教授のように、わざわざこれだけ聞きに来た学者もいて、いわば老教授へのオマージュだ。話は現代と中世における「名誉」の違いから始まり、先日のFIFAワールド・カップにおけるジダンの事件も取り上げた。フランス大統領の「ジダンはフランスの名誉を守った」という表現にあったように、現代でも「名誉」はときおり用いられるが、もともと男には勇気や忠誠、女には貞操と忠節が「名誉」とされたという。もちろん「トロイルス」からの引用が多い。質疑応答でも、「ジダンはサッカーの名選手の最後の試合で得るはずの名誉を捨てたが、アルジェリアの移民の子としての名誉は守ったのではないか」という意見も出て、盛り上がった。

コーヒー・ブレークにはブルーア教授より一歳若いチャールズ・マスカティン教授がいたので、ご挨拶。3月には夫人を悲劇的な最期で失ったが、お元気そうだった。この後に特別講演を行う愛弟子スーザン・クレイン教授に触れて、「昔ニューオルリンズの学会で先生が特別講演をおやりになったとき、スーザンが司会でしたね」と水を向けると、「よく覚えているね、彼女は最高の学者に成長した」と手放しの喜びようだった。

そのクレイン教授は「カンタベリー物語」の中に現れる鳥への言及を取り上げて鋭い批評を行い、明瞭な発音、力強い伝達力を持って満員の聴衆を魅了した。もちろん美貌でも。事務局長の話では450名が登録したというから、おそらく最大の参加者だろ
う。

12時半にNY大学助教授の門馬晴美さんと待ち合わせて、近くのメキシコ料理店へ。北海道大学の博士課程からトロント大学に進んで古英語で博士号、その後エール大学でフレッド・ロビンソン教授に可愛がられ、いまはテニュアをもつおそらくアメリカ唯一の日本人中世英文学者だ。ほとんど初対面だったが、話していても自信にあふれ、とても気持ちがよい。彼女も漱石の中世主義に関心があるとか、日本から資料を送ることを約束した。松田隆美教授と進めている企画にも参加してくれる由、ただし日本語の論文が書けるかどうか心もとないので、英語で書きたいと言っておられた。ともすると何かを引きずって生きている感じがする日本の女性学者と違い、彼女にはそんな面は一切なかった。ペンシルヴァニア大学助教授として活躍中の加野彩子さんにぜひ会って欲しいと伝えた。きっといい友達になれるだろう。

2時間ずっと話し続けた後、急いでキャンパスに戻り、マスカティン教授の発表を聞きに行くと、会場は立錐の余地なし。’Close Reading, Style, and History’という題で、Google, Wikipediaなどといった用語も交えて、ユーモラスにしかもドスの聞いた低音で語った。その後会場を抜けて、’New Light on Thomas Usk’のセッションに行ったのは、ロンドン大学のRon Waldronの発表を聞きたかったのだが、急に来られなったとかで、会長のウォレス教授が代読していた。チョーサーの同時代人でチョーサーそっくりの文体で書いたために一時はチョーサー作とされたこともあるこの作家、実は金細工師の組合員でかつ書記だったという事実が明らかにされた。参加者と後で話していると、「昨日のアダムのセッションは、まるでダヴィンチ・コードを見ているみたいにわくわくした」と言われて、こちらはご機嫌。

4時半にキャンパスを出て、セントラルパークの中を通って徒歩で北上する。炎天下だが、公園の中は少し涼しく、土曜日のこととてみな思い思いに楽しんでいた。ゆっくり歩いて5時15分にメトロポリタン美術館に到着、既に団体見学の仲間もきており、グループごとに中世美術部門を案内してもらった。逸品ぞろいで、一時間では惜しい。私の好きなブローチの類も多く展示され、その中のひとつ、ブルゴーニュのバックルが我が家にあるものとそっくり、一人でほくそえむ。

6時40分、みなと別れて美術館前に並ぶ豪壮なアパート群のひとつへ、玄関の守衛に来意を告げて3階へ。そこに長く住む、家内の幼稚園時代から大学までの同級生、渡辺奈々子さんに数年ぶりに会う。マドリッドから帰ったばかりの女優志望の娘アナイスも、17歳でもっとも可愛い年頃、挨拶するとまもなくフォーダム大学のボーイフレンドがやってきた。いまキャンパスでチョーサー学会をやっているというと、盛んに照れていた。イタリア系のご主人は昔オルフェウス室内管弦楽団だったが、今はヴェネチア室内楽団のマネージャーとして世界中を飛び回っている。

奈々子さんはNYの雑誌「ヴォーグ」の専属写真家、いまは文筆もやる才女で、学生時代は美貌でならし、いまも日本人には見えない容貌の持ち主。安西塾長は子供のときから、金子郁容教授とは学生時代からの友人。彼女のイタリア系手料理をいただきながら、話はもっぱら形而下的、子供の進学、当地の日本人などの話。アナイスの男友達のことに心を痛めているようだ。こちらはNYの芸術家の話などを聞きたかったのだが。

塾の150周年記念ロゴのデザインを彼女がこきおろしたので、あのデザインにはわたしも反対したが、ラグビー好きの塾長が最終決定したと説明した。いくらでもいいデザイナーを紹介できたのにと彼女は臍をかむ。

彼女の新著『チェンジメーカー』(この内容に触発された講義がSFCで開講されると、800名の学生が履修したという)をもらい、10時近くに再会を約して別れた。一人で82番通りからホテルのある47番通りまで、公園沿いと5番街を徒歩で帰ると、10時半過ぎだった。今日も1万5千歩を歩いて、充実した一日が終了した。そういえば、まだ何の買い物をしていない。もっともする気もないが。

NYC旅日記

Posted by admin - 7月 28th, 2006

6時間以上ぐっすり寝て4時起床、日記を書き上げた後、7時過ぎにホテル横の大衆レストランへ。ベルギー・ワッフルとコーヒーだけの朝にしたが、それでもチップを入れて8ドルだ。8時に出発、ぬるい朝風の中をブロードウェイを20分ほど北上、セントラルパークから60番街を進むとフォーダム大学リンカン・キャンパスがある。8時半に書店が開いたがカラマズーと違ってわずか数軒のみ、日本人が相変わらずたくさん買っていた。9時からの全体セッションは、ニューヨーク地域の美術館や図書館で中世のものを持っているところから専門家がやってきてプレゼン、学者と違って話もパワーポイントの使い方もうまくない。

コーヒーブレイクの後はわれらがアダムに関するセッションだが、スティーヴン・パートリッジ教授の姿がまだ見えない。司会と構成を担当するわたしがあわてて登録カウンターに行くと、いまワシントンから来たばかりだとか、会場に二人で上がると、リン・ムーニー教授らが発表順を変えることを提案してきた。このセッションが、彼女の大発見ーチョーサーのお抱え写字生はアダム・ピンクハーストで14世紀終わりから15世紀はじめまでたくさんの現存写本を転写したーを再検討しようというホットなトピックを扱ったこともあって、分科会だったにもかかわらず、150名を超える学者で会場はほぼ満員だった。

これを見たパートリッジ教授は、30部しかハンドアウトを用意してこなかったといって、あわてて刷りましに会場を出て行った。彼は最初のスミス教授のチョーサー言語の分析発表の場にはいなかった。今回の圧巻はなんと言ってもパフォーマンス能力に秀でたフレッチャー教授による「ジキル博士とピンクハースト氏」という驚くべき発表だった。昼は役所では書記を勤めたり、チョーサー写本の転写をやりながら、夜は禁止されていたウィクリフ派の異端論文を信奉者として転写していたという彼の二面性に注目したもの、チョーサーのパトロン、ジョン・オブ・ゴーントがウィクリフ派に共感していたことをあげて、このあたりの人間関係にもメスを入れるべきと提唱した。

ムーニー、フレッチャー両氏は未知の発見資料を紹介しながら自説を説いていたが、資料のありかをはっきりさせなかったり、前者の場合はパワーポイントのスライド数を多くすることによって、情報が盗まれないように工夫していたのがよく分かる。フレッチャー教授などは、これまでわれわれ同志にすらまったく情報を開示しないままだった。当然質問は彼に集中するかに思えたが、実際にはカンタベリー物語写本のマージンに記された書き込みについて発表したパートリッジ教授の発表内容に、多くの質問が集まった。各自20分弱の発表時間で抑えてくれたために、質疑でも盛り上がった。司会者としては質問者の顔と名前が分かることが必要だが、10名ほどの質問者でわたしが知らなかったのはアメリカ人一人だけだった。

12時35分にセッション終了、みなが異口同音にこんなわくわくする発表は初めてだと、発表者を取り囲み、質問を続ける。そこにやってきたマーサ・ドライヴァー教授があらかじめ予約してくれたインド料理店にデレック・ピアソル教授も誘って、7名で昼食。ミネラル・ウォーターで乾杯の後、インド料理のビュッフェを楽しんだ。昨夜マーサに誘われた大学クラブでのディナーに行けなかった非礼をわびると、彼女のご主人が今夜のヤンキースの試合の切符をもっているから行かないかとのご招待。ただちに応諾。でもそんな背広とネクタイ姿ではいけないわよ、と言われたので、食後ホテルに戻り、軽装で学会会場に戻った。

5時半に現れた大男がご主人のトム、ボストンの会社の経営コンサルタントだそうで、やさしいそうな紳士。ゆっくりとした英語で解説をしながら、地下鉄に乗る。彼もポロシャツに半ズボン、スニーカー姿、ヤンキースの応援にはこれが必要と帽子をくれた。6時過ぎにはスタジアムに到着、ホットドッグなどを食べながら、野球の情報交換。3時過ぎに雷雨があったので、急に涼しくなり、絶好のナイター観戦になった。昨年春ダラスで連れて行ってもらったバスケット試合と同じく、ここでもスピーカーがうるさい。

試合は6対0でヤンキースの圧勝、よくTVで見るロドリゲスら名選手のプレーを楽しんだ。欠場している松井の替わりにライトを守るバーニー・ウィリアムズがホームランを打つと、満場総立ちで拍手が鳴り止まない。聞くと、かれはベテランで既に38歳、地元ファンにはもっとも愛される一人だとか。それにしても松井を見たかった。ここの雰囲気に負ける新参者が多い中で、松井は最初からすごかったとトムもほめていたので、「きっと汚い野次の英語が分からなかったからだろう」と言っておいた。

10時前に試合終了、地下鉄で53番街で降りて、ホテルに戻る。別れ際に今度日本にはシーズン中に来るように、そうすればプロ野球観戦につれていくからと約束した。去年あたりから日記には、アメリカで見る肥満の多さについて記してきたが、NYではあまり目立たないのは若者が多いからか、あるいは外国人が多いからか、なんとも不思議である。

NYC旅日記

Posted by admin - 7月 27th, 2006

夜中に2,3度目が醒めた後、午前6時に起床、冷水といってもさほど冷たくないシャワーを浴びてから下に降りて食堂へ。コンティネンタルの朝食なのに、税金と定められたチップを入れて10ドルを超えた。「プリマドンナ」というレストランの名前とヴェニスのような内装はよいが、料金が高すぎる。明日からは隣の安食堂に行くつもりだ。

9時にホテルを出発、昨日とは違う道を通ってゆっくり徒歩でピアポント・モーガン図書館に着いたのが9時半、向かいにスターバックスがあるのでそこでアイスコーヒーを頼む。10時5分前に正門入り口に行っても開いていない。中の係員に合図されて建物の横に行くとスタッフの入り口があり、そこでサインしていると、印刷本部長のジョン・ビッドウェル博士が迎えに来てくれる。20名入る会議室が建設中なので、今日は中庭に地下を掘って建てたばかりの400名入る講堂に15名ほど集まっているから、そこでプレゼンをして欲しい、モーガン図書館のほかNY公共図書館、プリンストン大学シャイデ図書館などグーテンベルク聖書を有するところの貴重書関係者や、話を聞いてやってきた専門家らが聴衆だと聞かされた。

会場にはすでにみなが待っていたが、PCのセットアップに数分かかった。後は例のごとく40分のHUMIプロジェクトの解説、それから15分間のデジタル画像を見せて終了。どんなカメラを使っているかとの質問があったので、これについてはメールをくれれば技術担当者が答えると言っておいた。プレゼンの後に、NY公共図書館の貴重書部長がやってきて、奈良絵本の展覧会を10月からやる、立教大学から何人かくるが、時期が合えば来て欲しいという。これはぜひ石川教授に来てもらいたいものだと伝えた。立教は和書で有名なスペンサー蔵書すべてのデジタル化を考えているとか。本当かなと思ってしまう。

ビッドウェル博士は、HUMIがNYにデジタル化にやってきたら、上の三つの図書館共同プロジェクトとしてやりたいらしい。スペースのないモーガンでは写真撮影用の部屋の確保が難しく、近くのNY公共図書館にグーテンベルク聖書を送ってデジタル化する計画を既に討議しているとか。こちらはまだ何の条件も提示していないが、相手の熱心さがいささか怖い。

軽い昼食を食べながらニーダム博士と久しぶりにおしゃべり、もっぱらAさんの博士論文の出来栄えを褒めちぎっていた。出版のコツまで伝授してくれるほどだった。こうして午前中の仕事は大成功。もし時間があれば、いま仕事でNYに滞在している娘と家内の友人でここで「ヴォーグ」の写真家をしている渡辺奈々さんと昼食できればと考えていたが、これは仕事第一で実現せず、そうこうしている内にチョーサー学会の最初のセッションの時間が近づく。ニーダム博士と再会を約して、時間がないのでタクシーを拾ったが、ここではタクシーは時間がかかって当てにならないことに気づいた。

セントラル・パークの西側に位置するリンカン・センターの角にあるフォーダム大学(イエズス会)が、チョーサー学会の第15回国際学会の会場だ。その一階で登録をすませると、ブルーア教授夫妻がいた。奥様とは久しぶりにお会いした。先生は杖をついておられた。イギリスの暑さは1976年夏と同じだとのこと、かなりの日照り続きだったことは全英オープンのコースが完全に茶色になっていたので予想していたが。アラン・フレッチャー、アラスティア・ミニスらの大物を皮切りに、次々と学者と挨拶をしているうちに、最初の事務報告のセッションが始まった。その前に地元のマイケル・サージェント教授と一緒に座って、彼のヒルトンの校訂版の話を聞く。事務局長からの報告で、2008年はウェールズのスウォンジー、2010年はイタリアのシエナ大学で開催予定とか。イタリアでやるのは初めてだからアメリカ人学者がたくさん出席するだろう。

このセッションの出席者はさほど多くなかったが、次の会長講演では広い講堂が満員となった。ペンシルヴァニア大学のデイヴィッド・ウォレス教授が相変わらずヴェルサーチのおしゃれないでたちで登壇、ジョン・ガニム教授の司会で「新たなチョーサー・トポグラフィー」と題した講演で、なるほどチョーサーが現代でここまでさまざまなメディアで取り上げられているかということを実感させる内容だった。チョーサーは14世紀末に亡くなった後、各世紀の終わりに、キャクストン、スペンサー、ドライデン、モリスらによって刺激が与えられ、20世紀末のチョーサー学会を超えて21世紀にもその刺激が続いているとして、チョーサーお抱え書記がアダム・ピンクハーストだったというリン・ムーニー教授の発見にも言及した。われわれのセッションへの橋渡しの役をしてくれたわけだ。

コーヒー・ブレークの後、分科会に別れてのセッションが始まり、私は「中世に何が起こっているか」という刺激的な題のセッションに参加、部屋は超満員。中世と中世主義に関する定義からその取り組み方に大きな変化が学界に起こっていることを実感させられた。ステファニー・トリッグ教授が、北朝鮮のミサイル発射に関してコメントする専門家に対して、ある記者が「北朝鮮はまだ中世なんですか」と尋ねたことを取り上げて、「文化的記憶」の例としたのは面白かった。来春慶應でやる日本英文学会での特別講演の題を「中世と中世主義を超えて」にしようかなと考えた一瞬でもあった。ヨーク大学の若手が、パワーポイント画像を用いて、20世紀の建物でシェークスピア以降の英文学が教えられ、街の中にあるKing’s Manorでチョーサーが研究されている事実と意味を対比しながら論じた時、会場は大いに沸いた。あんないい宣伝の仕方はないねと、みなが思ったに違いない。

5時半に終了するとレセプション、アメリカらしい充実した食べ物と飲み物が出るので、みな満足そうだ。今回の学会で研究発表する田口まゆみ、中尾好行の両氏をウォレス会長に紹介すると、ふたりは直ちに名刺と論文の抜き刷りを手渡していた。サージェント教授の紹介で近づいてきた女性は、キャサリーン・スコット教授の祝賀論文集の編者ろくに返事もしていなかったのだが、まだ4名の寄稿者からもらっていないという。それがマルカム・パークス、クリストファー・ド・ハメル、デレック・ピアソル、それに私と聞いて、ううむ、早く書かなければと悟った瞬間だった。9月末に三田で講演にやってくるコリンヌ・サンダースン博士のパートナーも自己紹介してきた。

6時半にここで会って夕食をともにするはずのリン・ムーニー教授もマーサ・ドライヴァー教授も現れない。約束の日が間違えていたのか、30分待って会えなかったので、田口、中尾両氏と外に出てブロードウェイのスーパーと軽食堂が一緒になったような日本にはないビル地下で、おしゃべりをした。田口先生のおしゃべりが止まらず、地理の分からぬ中尾先生にまるで母親のように接していておかしかった。彼女、26歳のご長男と一緒にNYに来ているとのこと、さぞ仲のよい親子なのだろう。

9時ごろになって、二人と別れて、ブロードウェイ沿いに南下、ゆっくり周りを見ながら9時半には帰宿、10時半にはベッドへ。充実した一日だった。万歩計も1万歩を超えていた。時差ぼけは一度も感じなかった。

NYC旅日記

Posted by admin - 7月 26th, 2006

NYは20数年ぶり、故安東先生とご一緒にイギリスを回ってちょうどイースターの4月はじめにNYに来て以来だ。そのとき市内は地下鉄ストに見舞われたため、オフィスに急ぐ男女の多くがローラースケートで通勤していた。今回街の感じがどのくらい変わっているか見るのが楽しみだが、昔の記憶は当てにならないだろう。

さて、例によって6時前に起床、久しぶりにお日様を拝みながら新宿へ、空いた成田エクスプレスに乗ったら眠気に誘われて、9時半に成田の第1ターミナルに到着。新装オープンした南ウィングではANAが広いスペースをとっている。プラチナ・カードらのメンバー用カウンターでグレードアップしてもらい、メンバー専用の荷物検査入り口から入る。別に一般客と扱いは変わらず、出国検査場も空いていた。銀行で両替すると、ちょうど一ドル120円だった。

早速5つもあるANAのラウンジのひとつを目指す。あまり時間がないので、探索はやめて、インターネットにつなぐ。サンドイッチをつまんだ後、53番ゲートへ。楽器のケースを抱えたアメリカ人の楽団と思しき一団がエコノミーにいた。11時発のNH10の機体は777-300、ジャンボよりは小ぶりだ。これのビジネス席は初めて、ロンドン便のジャンボに比べると若干豪華さに欠けるが、平らなベッドになるから寝心地はこちらが上だと思う。

シャンペン、ジントニック、白ワインと美味しい和食を堪能、それが終わると例によってクラシックを聞きながら爆睡、3時間も寝ただろうか。中村獅童と違い酔いが醒めていたので、PCを取り出して、明日ピアポント・モーガン図書館でやるプレゼンの練習をしようと立ち上げると(電源ソケットが椅子の奥のスリットにあり、なかなか届かず往生したが)、無線ランが動いている。なるほどNY便では使えるなと、手続きをしてみると、存外うまくいった。一時間1000円、フライト中無制限で3200円ほどだったから、この際は後者にして使いまくった。途中から普段使っているAl-Mailもやってみると見事につながった。ちょうどシアトル上空だった。

やれうれしやと、片っ端から返事を書く。チョーサー学会のわれらのセッション担当者アレクサンドラ・ジレスピー博士から、自転車事故で口とあごに傷を負ったのでわれらのセッションに出られない、しかし最後の自分のセッションで新たな発見を取り入れたいから、原稿のコピーを送って頂戴という、彼女らしい強気の要請があった。また明日会う予定のポール・ニーダム博士から、7月末締め切りのAさんの博士論文審査要旨が送られてきていた。一読すると、これだけほめてくれる審査要旨も珍しい。しかし、世界一のグーテンベルク学者からほめられて、彼女も悪い気もしないだろう。

定刻どおり10時45分にケネディ空港に着陸、機外に出るには15分を要したが、入国審査も税関も簡単にパス、外にいる白タクに引っかからないようにとのアナウンスに促されて、タクシー・ランクへ向かう。空港からマンハッタンへは45ドルという料金が定められており、川のトンネル通行料4ドルが加算される。マンハッタンに入ると渋滞がひどく、ホーンを鳴らすなど運転マナーも悪い。(後で聞いた話では、学会に参加するためケネディ空港に降り立った日本人が二組、まんまと白タクに騙されたそうだ、桑原、桑原)

ブロードウェイに近いクォリティ・ホテルに着いたのは12時、マンハッタンのホテルはどこも高く文科省から定められた額内で探すのは至難の業、生協プレイガイドでも不可能だった。インターネットで探したここは2つ星だが、最近きれいにしたばかりとあった。6泊もするのだからいい部屋をあげたいけれど、空き室がないから3時にくるように言われる。そこで荷物を預けて、早速NY公共図書館へ行って、展示されているグーテンベルク聖書を拝む。あまり装飾が派手ではないのか、開かれていたのはさほど印象的ではないページだった。展示会場にはほかの貴重書もあるはずだが、ガラスケースは空だった。

マンハッタンは学生時代から数えて4回目のはずだが、京都と同じく通りが碁盤の目のようになっているので、どこでも簡単に歩いていける。街のど真ん中にあって、19世紀末に建てられた古風なNY公共図書館から外に出て、ピアポント・モーガン図書館を探すと、これも徒歩10分ほどのところにあった。昔ここで仕事をしようとポール・ニーダム博士と約束をとり、出かけていったら、彼が体調を壊して帰宅したと聞いたことを思い出した。あの時はウィリアム・モリス旧蔵の「風車詩篇」の写本を調べた。

午後の太陽が暑い。西に向かってブロックをジグザグに歩いていくと、ブロードウェイに出くわした。人混みがすごい。少し涼もうと、そばにあったヴァージン・レコードに入って映画のDVDを探すと,『冬のライオン』のリメイク版があった。60年代にピーター・オトゥールのヘンリー2世、キャサリン・ヘップバーンのエレアノール王妃でアカデミー賞を取った名作を、現代でどう演出を変えているかが楽しみで購入した。

2時にホテルに戻るもまだチェックインさせてもらえない。幸いロビーで無線ランができたので、メールをやり、3時にようやくチェックイン。インターネットには一部改装済みとあったが、ここは6階から上はいまも改装中。受付のイラン人のような女の子の日本語がうまく、和英で説明してくれる。519の我が部屋は、狭いがダブルベッドがあり、大きなプラズマTVが壁についている。シンプルなデザインも心地よい。浴室にシャワーしかないが、わたしにはこれで十分、早速冷水シャワーを浴びた。

その後再び外出、ロックフェラーセンター、カーネギーホールなどを見ながら歩き回ったが、依然蒸し暑さはたまらない。最後にはホテルの隣にあるサンドイッチの店で、ツナとアヴォガドのサンドイッチを作ってもらい、ミネラルウォーターを買い込み、さっさと部屋に戻った。明日からは学会関係者とご馳走を食べることになろうからと軽食で夕食を済まし、BBCアメリカを見ていると眠気に襲われ、7時ごろにはベッドに入った。部屋は66度の涼しさにセットされていて、冷房の効き目もいいからのどがやられそう。午前2時に目が覚めてこれを書く。時差ぼけと戦う毎日となりそうだ。