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2007ヨーロッパ旅行11ケンブリッジ

今回の旅行もこの日でラスト。

ケンブリッジから空港に行くだけの予定だったが、ホテルで情報を集めて、途中のSaffron WaldenにあるAudley Endというマナーハウスを見学。英国特有のハイティーでもしようと入っていったのだが、なんと館内をガイド付きで回るツアーがあるらしい。せっかくだから、地元のおばさんらしきガイドの話を小一時間程聞きながら館内を見学。ここでも面白そうな話題だけ(ヒアリングできた話題だけ)家族に伝える。日本人は我々だけだった。このマナーハウス、王族とも関係ある由緒正しきところで、蔵書数も多く、いくつもの部屋の壁一杯に並べてある書棚の中にピープスの日記が平然と置かれていたのが印象的だった。あと、動物の剥製をコレクションすることが流行した時代があったらしく、南極や北極の動物から、鳥、貝などまで、所狭しと飾ってある部屋があった。夜眺めたらさぞや怖いだろうな。ひととおり案内を受けた後、館内のレストランで食事。格式のあるハイティーはなかったが、サンドウィッチとスコーンを食べて英国を堪能した。庭が広く、黒鳥などと戯れた後、せっかくの広い庭なので庭内でマニュアル車の運転講習を娘にしてから、一路ヒースロー空港へと向かった。残念ながら帰りはエコノミーのままだった。これで今回のヨーロッパ旅行はおしまい。各国で結構歩き回ったというのが実感だ。帰国後の糖尿病の検査値が良好だったのは意外だった。少し位贅沢な食事をしても、ウォーキングは効果があるということなのだろう。

2007ヨーロッパ旅行10ロンドン&ケンブリッジ

朝食付きホテルだったので,思う存分朝食を食べて、ホテルを出た。タクシーでレンタカー屋に行き、今日はケンブリッジに移動だ。ロンドンを離れる前にどこか行きたい所あるかと訪ねたのがまずかった。もう一度リージェントストリートに行きたいという要望が娘からあり。おお、これは買い物か!仕方なくバッキンガム宮殿の横を通りながら、車を市内に走らせる。SOHO近くの駐車場に止めて、また市内ウォーキングだ。結局買い物はせずに、昼食は韓国料理屋に入り、なぜかインスタントラーメンを食べた。その後一路A1からM11を目指してケンブリッジへ。実はこの時に市内にレンタカーで入った事が罰金を取られるはめになったが東京に帰って来てから判明。レンタカーの予約はアメックスに依頼してやってもらっていた。注意事項として、ロンドン市内を走る場合には前もって登録が必要ということだったので、その作業もアメックスに依頼してあった。しかしそれをレンタカー屋で確認するのを忘れていた。恐らく登録漏れだったのだろう。その日の罰金は50ポンド。しっかりとアメックスから引き落とされていた。
今回はマニュアル車だったので、私がずっと運転。何しろ娘の免許ではマニュアル車の講習を受けていないので運転ができない。M11に乗ったらケンブリッジはあっと言う間だった。ホテルはCrown Plaza Cambridge。ここも3人部屋。ロンドンのホテルと同じでPriority Clubで事前予約すると割とお得な金額で泊まれる。

早速ケンブリッジを散策。まずはパンティングから。ご存知ケム側のツアー。夏休みの最後なのか、まだ学生アルバイトがたくさん宣伝ボードを持って売り込み をかけていた。少しゆったりと過ごそうと思い、3人分の往復を申し込んだ。(一番安いのは自分で運転すること、そして次が片道。)しばし時間があったの で、パブで一杯飲んでから乗り込んだ。

私の家族3人とどうやら米国からのお客さんらしき女性4人組。なんとiPhoneを持っていたので、これはアメリカからの人だと一目瞭然。ガイドの説明を面白いところだけ(ヒアリングできたところだけ)妻と娘に同時通訳。キングスコレッジが学生数最大で一番金持ち。そいつらに見栄を張る為に「嘆きの橋」がキングズコレッジに見える側だけ装飾されているなんていう話をしていた。本当かな?水辺を気持ちよそ差王に泳ぐカモが印象的。そう言えば20年前に連れて来た時は娘は10ヶ月のあかちゃん。「があがあ」「があがあ」と楽しんでいたのを思い出した。

「嘆きの橋」はイタリアのベニスがモデル。キングス・コレッジ側と逆側では模様が異なる。予算があったキングス・コレッジ側は繊細な模様が施されている。ケンブリッジで最もお金があるのがキングス・コレッジだそうだ。

 

 

 

キングス・コレッジ、コーパス・クリスティ・コレッジ、セント・ジョンズ・コレッジ等の市内を環境。ニュートンのリンゴの木って本当だろうか?

イギリス1993-4

コーパス・クリスティ・コレッジに単独で侵入を試みるが、入館を断られる。

日本から推薦状付きで閲覧したい本を見せて欲しいと正式依頼していたが、丁重に断られた。

実はこの時指定していた、稀覯書はこの年に研究対象となっていたためとあとでわかる。

翌年、その研究成果物としての書籍が送られてきたのにはビックリ!

感謝、感謝である。