提携校のジョン・ラッキー校長とひざをつき合わせて話し合ってきた。今回は心で会話しようとこころみ、つたない英語力ではあるが、じっくりと身振り手振りも含めてこころを開いてコミュニケーションを取って来た。
アットマークの仕事をするようになって既に10回近く、米国への出張を繰り返している。おかげではじめてゴールド会員扱いで旅をすることができたが、いずれにしてもエコノミークラス・シンドロームにならないよう、充分水分と運動を取るようにこころがけた。また、会議資料も日本で緻密に準備して行った為、今回の会議はこれまでで最も効率良く、ポイントが整理された情報を交換することができた。
ここで、言いたかったのは「大切なのは準備」であることだ。私たちは日常の生活で様々な障害を乗り越えながら生きている。乗り越えるために様々なことを学習し続けているわけだ。エコノミークラス・シンドロームを避けるにはどうした良いのか、会議を効率よくするにはどうしたら良いのか、何度か間違いを犯しながらも経験を積むことで、人は必ず学習していくわけだ。 どんな仕事をしようとも、または家庭での仕事であろうとも、準備が充分でなければ、満足のいく結果が得られない。つまり、準備の過程にはそれ相当の工夫も必要だということだ。
もし、一人の仕事のできる人がすべての準備を行ってしまったら、周囲の人は何も学習しないかもしれない。プロのコックが準備を怠るということはまずありえない。旬の食材を使うこと、調味料や火を入れるタイミング、季節による味付けの変化など、その時々の料理を創り出す工夫の中心作業は、やはり周到な準備だろう。しかも周囲の人たちにも自分の目標を伝えながら、適切な指示を出していくことも必要だ。伝えてもらえない秘伝は盗むしかないかもしれないが・・・いずれにしても秘伝は準備の中にある。
準備には情報の共有化が必要だと思う。アットマーク・インターハイスクールで言えば、学習計画であるコントラクト作りがそれにあたる。学生は自分のコントラクトをサポートティーチャーと情報共有しながら作成していく。自分の目的が何であるのか、その目的を実現するためには、途中でどんな目標をクリアしていかなければならないのか。そんなことを学生自らが考えて行く姿勢を学ぶ。
決して大人側の都合で、コントラクトを創り出す必要はない。つまり、パッケージ化されたものはサポートティーチャーから引き出すことはできない。サポートティーチャー側からパッケージものが出てきたら、それは誤った指導法でもあるとも考える。それぞれの学生の情報をいかに引き出し、夢、希望となる目的を一緒に発見し、それに対する準備を個別に設定していくことが必要だ。それには学生との情報の共有化がどうしても必要なのだ。
学生は一人一人それぞれの異なる目的、目標を持っている。そして実力、得意技、可能性、学習環境などの条件を考慮しながら準備を整えるわけである。サポートティーチャーとの情報共有を経ながら、最終の目的を達成する為に学習していくわけだ。
3月には学生に各自の学習の成果を発表できるチャンスが与えられる。様々なコントラクトを創り出してきた学生たちが、どんな形態で自己表現してくれるのかが、今から楽しみだ。きっとプレッシャーにあがっている学生もいるだろうが、最後に頼れるのは自分自身、自分がどれだけ準備ができたのかが彼らの自信につながっていくのだろう。完成形でなくても良いと思う。自分がどんな準備をしているのかを自己アピールして欲しいと願っている。
今回の出張で準備しそこなったことがある。風邪への対応だ。長時間乾燥した機内にいたこと、同行した者が風邪をひいていたことなどが重なり、かなりひどい目にあってしまった。ウィルスも学習して進化しているわけで、敬意を表さなければならないが、この戦いはしばらく続くことだろう。人類も学習は続けているのだが、風邪ウィルスの方が準備万端だったということか・・・
「総合的な学習の時間」
「総合的な学習の時間」は子供たちに受け入れられるか?結論から言うと、受け入れられるような環境を作り出せる教員がいれば可能であると私は考える。
学習には基礎学力、分析・批評力、創造力といった側面があることを忘れてはならない。昨今の学校教育では基礎学力への評価が高すぎた傾向があった。
教員も基礎学力を評価することは単純作業である為に、必然的に仕事の大半がそちらに傾倒してきた事実を実感しているはずだ。学校教育という学習環境の下では、暗記や基礎計算ができるかできないかを評価することが、最も結果を出しやすかったということだ。そこに来て、手間のかかる「総合的な学習の時間」の登場である。パッケージ化されたカリキュラムはないのか?と教員から不安があがってくる背景には、単純作業からの脱皮に戸惑っている労働者の姿が見え隠れしている。
従来の方法論では単純に割り切れない学習環境をつくらなければならない。確かにエネルギーのいることだと思う。しかし、ここで教員が大上段に関わって、「総合的な学習の時間」を定義付けしようとすると、本来の目的が達成できなくなる可能性が出てくる。「総合的な学習の時間」はパッケージ化されるべきではない。ここでは教員は一歩引いて、学習者の需要を分析することから始めるべきだと提言しておきたい。
情報の分析力、批評力、そして新たな情報の創造をめざせるような学習環境を整えることを目指せば、現状で足りない学習面を強化できるのではないか?基礎学力が弱かった学習者にも新たな側面でチャンスが与えられた場合、ある才能が教員にも見えてくる場合もあるだろう。そうした発見が日々感じられる時間こそ、教員にとっても「総合的な学習の時間」は生きた時間になってくるだろう。
まずは学習者一人一人をもう一度じっくりと見直してあげる時間をつくるべきだ。
具体的には学習者の得意な学習方法、学習環境を聞き出す努力が必要だ。
学習者のやる気を引き出し、足りないところを補うためにコラボレーション学習とチームティーチングを導入する。実は私がある私立中学で行っている授業と、アットマーク・インターハイスクールで行っている学習方法は、この方法論で実践してきている。
学習者自身が自分にあるもの、足りないものを感じ取ることができる環境、足りないものを補うためには自分で獲得する方法と人から伝授してもらう方法があると自覚できる環境、さらには人に自分が教えられることがあることを発見できる環境こそ、すばらしい学習環境であると考える。そんな環境を提供するように心がければ、
「総合的な学習の時間」は何も恐れるに足りないものであることが見えてくるはずだ。

