「総合的な学習の時間」は子供たちに受け入れられるか?結論から言うと、受け入れられるような環境を作り出せる教員がいれば可能であると私は考える。
学習には基礎学力、分析・批評力、創造力といった側面があることを忘れてはならない。昨今の学校教育では基礎学力への評価が高すぎた傾向があった。
教員も基礎学力を評価することは単純作業である為に、必然的に仕事の大半がそちらに傾倒してきた事実を実感しているはずだ。学校教育という学習環境の下では、暗記や基礎計算ができるかできないかを評価することが、最も結果を出しやすかったということだ。そこに来て、手間のかかる「総合的な学習の時間」の登場である。パッケージ化されたカリキュラムはないのか?と教員から不安があがってくる背景には、単純作業からの脱皮に戸惑っている労働者の姿が見え隠れしている。
従来の方法論では単純に割り切れない学習環境をつくらなければならない。確かにエネルギーのいることだと思う。しかし、ここで教員が大上段に関わって、「総合的な学習の時間」を定義付けしようとすると、本来の目的が達成できなくなる可能性が出てくる。「総合的な学習の時間」はパッケージ化されるべきではない。ここでは教員は一歩引いて、学習者の需要を分析することから始めるべきだと提言しておきたい。
情報の分析力、批評力、そして新たな情報の創造をめざせるような学習環境を整えることを目指せば、現状で足りない学習面を強化できるのではないか?基礎学力が弱かった学習者にも新たな側面でチャンスが与えられた場合、ある才能が教員にも見えてくる場合もあるだろう。そうした発見が日々感じられる時間こそ、教員にとっても「総合的な学習の時間」は生きた時間になってくるだろう。
まずは学習者一人一人をもう一度じっくりと見直してあげる時間をつくるべきだ。
具体的には学習者の得意な学習方法、学習環境を聞き出す努力が必要だ。
学習者のやる気を引き出し、足りないところを補うためにコラボレーション学習とチームティーチングを導入する。実は私がある私立中学で行っている授業と、アットマーク・インターハイスクールで行っている学習方法は、この方法論で実践してきている。
学習者自身が自分にあるもの、足りないものを感じ取ることができる環境、足りないものを補うためには自分で獲得する方法と人から伝授してもらう方法があると自覚できる環境、さらには人に自分が教えられることがあることを発見できる環境こそ、すばらしい学習環境であると考える。そんな環境を提供するように心がければ、
「総合的な学習の時間」は何も恐れるに足りないものであることが見えてくるはずだ。

