「私学」

福澤諭吉が目指していたのはpublic schoolであった。public schoolを中国語の義塾という言葉をあて創設したのが、現在の慶應義塾である。ここで使った義塾とは「義捐金で運営される公共の学塾」の意味を指す。
cf)http://www.keio.ac.jp/pdf/sougou01.pdf
ここでの公共という言葉は決して国家主導型、官僚主導型という意味ではない。あらゆる権力から独立し、公共の益に貢献するという意味で使ったのであろう。

さて、そこで私学であるが、経済又は歴史的側面以外からも私は考えてみたい。

もともと学ぶという行為は個人的なものである。学問をするか、しないかは全て個人の責任の中で行われるべきだろう。国家や親の為に学問をしなければならない状況下では、いったんその第三者に対する評価が変わってしまった場合、目的を見失ってしまう。しかも、責任を第三者に転嫁してしまう。日本の将来を心配して、現在の若者に学識をつけなければいけないのだと大上段に構えて国家の利益を論じるより、国家そのものを形勢している個人自らが独立し、自尊の精神を持たなければならない。つまり個人の利益が向上しないかぎり、国家の利益は向上しないと考えている。

現代に官学と私学という言葉を使うのであれば、私は学問をする動機付け、視点として、指導する側の立場に立って論じるか、学習するものの立場で論じるかという、視点の違いで使い分けたい。私学は個人の心の中に存在している。いつでも、どこでも個人の心の中に自由に設立できる学校が私学である。アットマーク・インターハイスクールはそうした学習者の心の中に生き続ける学校でありたいと願っている。

「何の為に勉強するの?」

人は何の為に勉強するのでしょうか?学生も社会人も、人は同じ悩みを持っています。
社会人は何の為に仕事をするの?というのも付け加わりますが。

富国強兵の為に天皇制をフレームワークとしていた時代、国のため、一族のため、親のために青春時代を犠牲にしていた時は悩む必要もなかったのかもしれません。
資本主義というゲームの中で出世してお金を儲けることを最大目的としていた時は、不思議に思うこともなかったのかもしれません。

しかし、どの時代でも忘れてはいけないのは、自分で考え、実行してきたものがいたということです。偶然その時代を変革してきた人もいるかもしれませんが、いつの時代にもそうした人材が必ずいたはずです。

何の為に勉強するのか、働くのか、そして生きるのか、と自分を見つめなおした時、そこにあるのは宗教でも、哲学でもありません。そう、裸の自分という存在そのものが見えてくるはずです。
自分をみつける為に、自分の姿を映し出す鏡として、人は本を読み、映画や演劇を観て、芸術を鑑賞するのかもしれません。また、神秘的な数学の世界に浸り、雄大な自然と対峙することによって、見出すことのできるものも多いでしょう。仕事の中で自己実現を図ろうとするのも、ひとつの試みかもしれません。

人は感動する為に学習するのではないでしょうか?感動は人それぞれの感受性によって異なります。つまり、学習スタイルも人それぞれ違って良いはずです。
しかし、そこに感動する自分がいることだけは動かせない事実です。自分で見て、聞いて、考えて、感動する。その為に学習する自分がいても良いはずです。
社会構造がどう変わろうと、インディペンダント・ラーニングを実践する意義は大きいと考えたほうが良いかもしれません。