怒涛の2014年年末

25日のクリスマスの日、母校の戸山高校でレクチャーをしている際に突然携帯が鳴った。

父道夫の容態が悪化し、いつその瞬間が来てもおかしくないという知らせだった。

講演はきちんとこなし、一旦帰宅した上で、自家用車で実家に向かう。着いた時、父はテレビのチャンネルを握りながら、テレビを凝視していた。私の顔を見てびっくりしたような目が光る。サチュレーションは悪化、息苦しさはひどくなっていた。仕事中だった家族にもメールしたが、なかなかメールでは実態が掴めなかったかもしれない。何度も質問が来る。夕方、一旦自宅に戻った。本当は仕事のアポイントが一件あったことがどこかで引っかかっていたのだと思う。とにかく車で実家を出た。車の運転をしている時に先方から連絡が来た。完全にひとつアポイントをすっぽかしてしまった。気が動転していて、やはり冷静ではなかったのだと思う。本来向かわなけれいけない方向ではなく、自宅に引き返していた。年初にアポは仕切り直していただいたが、関係者の皆様、大変失礼しました。

翌26日午前12時過ぎ、早くに寝付いてしまったベッドの横で、携帯が鳴る。急いで、実家に全員集合の召集をかける。すでにかなりの酸素が送り込まれている状態。なぜか父は電池の切れたクマ型の簡易イルミネーションを握りしめながら、苦しそうに息を続けていた。

私の娘、父にとっては孫の夫婦も夜中なのに終電近くを利用して到着。それまでは水もなかなか飲みずらそうにしていた父が、吸い口を使って孫から差し出されたビールを大きな目を広げて、飲み込んだ。とても嬉しそう。おかわりはと聞くと、大きく頷く。酒好きの一族が大好きだった父の最後の食事だった。

落ち着いたのか、寝込んだようだったので、一旦帰宅。朝6時半頃、また携帯電話が鳴る。とうとう息を引き取ったという知らせ。享年82歳。天寿を全うした人生だったと思う。

8年間にわたる闘病生活、その間介護保険のお世話にもなり、様々なサービスも享受できた。最期は、赤字財政の国の政策通り延命治療をせずに、自宅で見送るスタイルで見送った。社会的には大きな存在ではなかったかもしれない父だったか、やはり家族にとっては宇宙の大きなブラックホールに吸い込まれそうな悲しみが襲ってきたのも確かだろう。多くの親戚と、宗教活動での仲間たちに囲まれた旅立ちの式を渋谷鶯谷乗泉寺で実施することができた。

親族代表として挨拶の時間を借りて、父の生きた時代と父の思い出を文章に残し、語らせていただいたいた。

父らしい、家族を大切にした式にしたかったため、私の関係の方々にはお知らせしませんでした。ご了承ください。

また、喪中のお知らせもとても間に合いませんでしたので、新年のご挨拶は、改めて寒中見舞いという形で返信させていただきます。

合掌。

 

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