教育のナショナル・ミニマムとは何か?先日ある会合に参加する機会を得て、この言葉に遭遇した。学生に最低限得て欲しい国民としての知識ということになるであろうか。ナショナル・ミニマムを身につけさせる業務を行っている団体を学校と呼び、税金を投入できる団体として国が認めるようだ。税金の使い方を論議する時、良く使われる言葉らしい。
ナショナル・ミニマムを身につけることができたかどうか学生に確認するには、統一テストが必要になるということであろう。一方、ナショナル・ミニマムを教えている団体の統一テストは聞いたことがない。税金を投入しているからには、このナショナル・ミニマムを必ず理解させることが学校の義務だとされているので、当然行われていることとして考えられているようだ。
さて、世はインターネットの時代である。世界の垣根を取り払おうとしている時代である。この世界ではナショナル・ミニマムがどこまで通用するものであろうか?むしろインターナショナル・ミニマムを提示するべきではないだろうか。
ネチケット(ネットワークエチケット)という言葉も最近耳にする方も多いかと思う。義務教育の最終学年である中学3年生でも相手を納得させる手紙、自分の意志を正確に伝える手紙を書けない学生が増えている。ネチケットの前にこうした自己表現をもできない学生をを生み出してしまっているのが、このナショナル・ミニマムを義務として強いられている学校の教育現場の実状であろう。ネットワークを利用する場合、最低限このネチケットを理解させることは、ぜひミニマムに取り入れて欲しい事項だ。
アットマーク・インターハイスクールでは、まずメールでのコミュニケーションを中心に学習がスタートする。ここでは、自分を表現すること、手紙を書けること、メールを使いこなすことは日々の活動の中で自然に見につくように仕組まれている。言い換えると、そこからスタートしなければ、実際の学習は何もスタートしない。すでにそこには内向きのナショナル・ミニマム的な学習ではなく、世界にも通用するインターナショナル・ミニマムの知識を獲得するベクトルが働いている。
必要とされているサービスの需要があるからこそ、供給しているにすぎない。税金を補助金として利用することによって国歌斉唱や国旗掲揚が義務として課せられるか否かという問題に立ち入ること問題提起しているわけではない。本当に必要とされているサービスを提供できているか否かで、学校も評価されるべきではないかと思う。
公的な教育とサービスの教育を分ける考え方もあるようだが、サーバーがありクライアントがあるコンピュータの世界ではネットワークサービスが不可欠なように、教育を提供する側と受けたい側が存在するところに適切なサービスが行き届いているか否かを論議する時期ではないだろうか。マシンを止めずサービスを提供しながら、少しずつプログラムを修正していくのか、一度リスタートしてすすめていくのか、新たなコンピュータを作り上げるのか多少の差は出てくるであろうが、求めるところは一緒であって欲しいと切に願う。

