大人になることは夢を失うことではない。先日の成人式に各地で問題になっていた新成人達の姿を見ていてそう思った。確かに今の世の名、大人になっても夢を持ち続けるのは難しいと感じる時もある。
しかしそれが問題なのではない。21世紀を生き抜いていくはずの子供たちが、自分の夢を抱くことが難しいと感じていることが問題なのだ。夢を真摯に聞いてくれる仲間がいないこと、夢を実現する為に親がサポートしてくれないこと、子供の夢さえ聞いたことがない親がいること、そんな状況が心配なのだ。
いつの時代にも、子供は夢をみてきたはず。勉強に、仕事に追われ、夢を考える時間を奪われ、いつのまにか夢の存在すら忘れてしまった私たちが、今一度初心に戻って、この新世紀に勝ち取らなければならないものは、夢をみること、何かしたいと思うこと、一緒に創り上げたいと願うことなのではないか。
馴れ合いの仲間の中で大人の常識を打ち壊すことや個に埋没して人の生をゲームのように扱うことに夢を抱く自由を制限するつもりはないが、自由は生まれながらにして備わっているものではなくて、義務を果たすことで勝ち取ることであることを伝えていくことは大人の役目なのかもしれない。
大人も自分の夢をもう一度見直す時間を新世紀とともに勝ち取ることが必要だろう。
「なんでこの人あんなことに夢中になっているんだろう?」と周囲に思わせるような大人として今年もエンジンを始動していこうと思う。
「新世紀の小さな夢」
新しい世紀に期待して夢を語り合いましょう!
よほどのことがない限り自分は新世紀を迎えているだろうと思っていましたが、その瞬間一体何をしているのだろう、何を考えているのだろう?と良く考えていました。
生きているのか、死んでいるのか?やりたいことがたくさんあるのか、なんとなく時間をすごしているのだろうか?
そんな疑問に答える為に、または忘れる為に、これまで、ある時は勉強に、ある時は仕事に、わざと自分を追い詰めていた時期があったかもしれません。
ただ、数年前のインターネットが私に新世紀に歩むべき道を予測するチャンスを与えてくれたのです。
小さなツール(力)が世界をも動かす大きな流れ(マーケットの形成)に貢献する大革命になるであろうことは容易に予測できました。さて、そこで何をしようか。
自分は何に役立つのだろう。何をやりたいのだろう。
そして原点に立ち返ってみたのです。これまで自分が好きでやってきた活動(西洋紋章研究、カリグラフィー、スヌーカー)などを通して学ぶということの楽しさをみつけられたことが頭に浮かびました。
さらにインターネットで得た知識や仲間からの情報がその活動を支えてくれたのです。
学習とインターネットは親和性が良く、うまく活用することによって一人ではできなかったことも可能にしてくれると信じるようになりました。国内ばかりでなく、海外の専門家とのつながりも瞬時に確立してしまうのですから。
しかもやる気持ちさえあれば安価に情報を共有できます。
こんなすばらしいことができるんだと、一人でも多くの人に伝えたいという気持ちが、今の私の活動の基本になっているのです。
つまり、私の活動の基本はとても個人的な欲求から生まれたのです。学習は個人の願い、個人の夢をかなえてくれるひとつの道具なのではないでしょうか。好きなことからはじめる学習は確実に可能性を秘めているのです。
仲間や先生がすぐそばにいる状況ではいくつかの問題も発生します。いつか話せる、いつか聞くことができる、だから今はこの問題は解決せずに先送りにしよう。もともと好きな事でないから、勉強なんてしたくない。この勉強がなぜ自分に必要なのかよくわからない。そんな気持ちが生まれてしまう学生をこれまで何人も見てきました。
結局その甘えを引き締める方法として単純な競争意識を発生させようとしているのが現在の教育界の姿ではないでしょうか。効率が良いからという追い風も備わっているので、なかなか今のやり方を変えるには時間がかかるでしょう。一方で、こうした時間と場所に縛られた学校という環境にどうしても合わない学生が増えてきたわけです。いつでも聞けるという甘えから、もう誰にも聞きたくないという拒否感まで育ってしまった場合、集団の中での効率的であったはずの学習環境はその学生にとっては一変してしまうのです。
そんな環境をも変えてくれるのに役立つのがインターネットです。個人的欲求の学習の環境を変えてくれるインターネット、そしてそのツールがのもたらす世界を想像してみてください。
そこにはおそらくOne to Oneのサービスが展開されてくるのではないでしょうか。
また、そのサービスが蜘蛛の巣状に有機的にからみあった時、その力は巨大な世界をつくりあげてくれるでしょう。
そんな夢を抱いて私はこの新世紀を迎えたわけです。なんと幸せなことか。何しろまだまだやらなければならないことはたくさんあります。幸い賛同者を得て、今は一人ではないのです。
アットマークというひとつの集団が一歩一歩ではありますが、道をつくりはじめている。学生も家族もスタッフも、学習の新たな環境を作り上げようと一歩踏み出したのです。
さらなる飛躍の為に、自分自身、世紀末にリセットスィッチを押してゼロにもどそうと試みました。(少し休暇を取っただけですが・・・自分を見つめなおす時間を無理やり作りました。)
新世紀に新たなる一歩を踏み出せるよう心の準備をしておきたい。これから出会う学生に対しても、現在受け持っている学生に対しても、もう一度基本に戻って、また聞くことからはじめていこうと再確認しました。
あらたなコミュニケーションの中にはきっと新たな発見がある。その小さな発見を継続していくことで一緒に学習していこうと願っています。それが私の新世紀にいだいた小さな夢です。
0と1、結局ここが私のエネルギーの原点なのでしょう。いつでもこの基本を忘れずに新世紀を歩んでいきたいと誓いをたてたわけです。
「私学」
福澤諭吉が目指していたのはpublic schoolであった。public schoolを中国語の義塾という言葉をあて創設したのが、現在の慶應義塾である。ここで使った義塾とは「義捐金で運営される公共の学塾」の意味を指す。
cf)http://www.keio.ac.jp/pdf/sougou01.pdf
ここでの公共という言葉は決して国家主導型、官僚主導型という意味ではない。あらゆる権力から独立し、公共の益に貢献するという意味で使ったのであろう。
さて、そこで私学であるが、経済又は歴史的側面以外からも私は考えてみたい。
もともと学ぶという行為は個人的なものである。学問をするか、しないかは全て個人の責任の中で行われるべきだろう。国家や親の為に学問をしなければならない状況下では、いったんその第三者に対する評価が変わってしまった場合、目的を見失ってしまう。しかも、責任を第三者に転嫁してしまう。日本の将来を心配して、現在の若者に学識をつけなければいけないのだと大上段に構えて国家の利益を論じるより、国家そのものを形勢している個人自らが独立し、自尊の精神を持たなければならない。つまり個人の利益が向上しないかぎり、国家の利益は向上しないと考えている。
現代に官学と私学という言葉を使うのであれば、私は学問をする動機付け、視点として、指導する側の立場に立って論じるか、学習するものの立場で論じるかという、視点の違いで使い分けたい。私学は個人の心の中に存在している。いつでも、どこでも個人の心の中に自由に設立できる学校が私学である。アットマーク・インターハイスクールはそうした学習者の心の中に生き続ける学校でありたいと願っている。
「何の為に勉強するの?」
人は何の為に勉強するのでしょうか?学生も社会人も、人は同じ悩みを持っています。
社会人は何の為に仕事をするの?というのも付け加わりますが。
富国強兵の為に天皇制をフレームワークとしていた時代、国のため、一族のため、親のために青春時代を犠牲にしていた時は悩む必要もなかったのかもしれません。
資本主義というゲームの中で出世してお金を儲けることを最大目的としていた時は、不思議に思うこともなかったのかもしれません。
しかし、どの時代でも忘れてはいけないのは、自分で考え、実行してきたものがいたということです。偶然その時代を変革してきた人もいるかもしれませんが、いつの時代にもそうした人材が必ずいたはずです。
何の為に勉強するのか、働くのか、そして生きるのか、と自分を見つめなおした時、そこにあるのは宗教でも、哲学でもありません。そう、裸の自分という存在そのものが見えてくるはずです。
自分をみつける為に、自分の姿を映し出す鏡として、人は本を読み、映画や演劇を観て、芸術を鑑賞するのかもしれません。また、神秘的な数学の世界に浸り、雄大な自然と対峙することによって、見出すことのできるものも多いでしょう。仕事の中で自己実現を図ろうとするのも、ひとつの試みかもしれません。
人は感動する為に学習するのではないでしょうか?感動は人それぞれの感受性によって異なります。つまり、学習スタイルも人それぞれ違って良いはずです。
しかし、そこに感動する自分がいることだけは動かせない事実です。自分で見て、聞いて、考えて、感動する。その為に学習する自分がいても良いはずです。
社会構造がどう変わろうと、インディペンダント・ラーニングを実践する意義は大きいと考えたほうが良いかもしれません。
「家庭での教育と21世紀の親とは」
昨日、大学生と社会人の集まりで議論する機会を得た。各人様々な意見を持っており、しかもそれが自分の育ってきた環境に大きく左右される意見が多かった。とかく躾の問題に帰結しそうなテーマである。実際昨夜の会議もそこに議論が落ち着きそうだった。
結論から言うと私はそうした議論の終着を望まない。「コミュニケーション不足の解決」を私は主張したい。
歴史的に考えると、従来の家庭には宗教やイデオロギーなどでこうでなければならないという家庭像が暗黙の了解の中に存在していたのではないかという提言もあった。そうした呪縛から運良くか悪くかわからないが解放されてしまったのが、現代我々日本人が抱えている家庭ではないだろうかということだ。
どこでも同じ親と子の関係があるとは限らない。そこには暗黙の了解のルールが欠けてしまっている。そこで、家庭の教育とは、小学校までは躾が大切、大きくなったら親を乗り越える試練が必要というような議論を持ち込んでも、無意味になりつつあるのではないか。
「なぜ?」という疑問を閉じこめるほどの大きな力が働いていないからだ。
会社でも最近「なぜ?」という疑問ひとつひとつに回答を出していかなければ、人は動いてくれない。「朝は上司に挨拶しなければならない」とそこで議論しても仕方ないのだ。「挨拶をするとお互い気持ちが良いよ」というコメント入れないと、人は動いてくれそうにない。
親も子も「なぜ?」を繰り返しつつ、コミュニケーションを取ろうとする努力が家庭内ではより必要になってくると感じている。そのツールとしてITにも期待している私は論点が少しずれてしまっているのだろうか?そんな疑問を昨夜感じてしまった。
日々のサポート業務にもそうしたひとつひとつの「なぜ?」に答えていることが多くなってるのは当然の結果かもしれない。「聞く」態度がますます重要になってくるのが21世紀からの親への要求事項なのではないか?
「Independent Learning と3C Thinking」
アルジャー・インディペンデンス・ハイスクールのジョン校長と再会してきた。コミュニケーションを深める為に意見交換をして、お互いの教育理念を再確認する場にもなった。
彼はあくまでもインディペンデント・ラーニングを提唱している。
自分で気づき、計画し、学習し、反省していく過程を評価している。もちろん各学習者にはそれぞれの学習スタイルがあり、そのスタイルを尊重することは忘れてはいない。また、その学習プロレスを重視して、成長を評価している。
この学習方法をトライすることは、かなりハードルが高いと思われる人もいるだろう。その為にチームという概念が存在している。一人では越せない山もチームを組んで困難に取り組んでいくこと、その機会を私たちは学習者に提供していかなかればならない。
以前、ここで3C Thinkingという考え方を紹介した。
Common Thinking, Critical Thinking, Creative Thinking. どれも大切な考え方であろう。ただ、これを学習に役立てる場合、私たち学習支援者はその時期とバランスに気を配るべきだろう。
年齢ではっきりと分けられるとは思わないが、学習の側面として上記の3C T hinkingには、その学習タイミングに傾向が見られると思う。
年齢の低い場合の方がCommon Thinkingを学ぶ環境が整っているし、より年齢が高い学習者がCritical Thinking, Creative Thinkingを獲得しやすい環境にいるということだ。
もちろん、小さな子供でもCritical, Creativeな考え方が強い学習スタイルを持っている子供もいるだろう。また大人になってからも、Common Thinkin gの獲得が得意なスタイルを持っていても良いと思う。
ただ、注意しなかればならないのは、どれか一つに偏った学習方法の獲得を、ある時期に絶対化、義務化することは避けなければならないということだ。また、そうした物の見方、学習の目的として様々な諸相があることを意識しておくことは学習者にとっても重要なことだと思う。
インディペンデント・ラーニングを実践するということは、もちろんこの3つの諸相を意識して学習を進めるということだ。また、学習者がいくつかの諸相を混ぜて学習している
ことを、サポート側が認識してあげることが必要だ。そこで、学習者のセルフエスティームが確立してこそ、この学習方法を選択した価値が出てくる。
私たちは1を100にしなさいという言っているわけではない。0を1にしなさい、自分を見つめなおして、自分で一歩踏み出してみようとトライしてみたら、と助言しているのだ。
但し、1が1のままで良い、50が50のままで良いと考えている学生には、この学習方法は難しいかもしれない。その時はチームで乗り越えてみようよ。アットマーク・インターハイスクールはそう誘いかけている学校だと思っていただきたい。
マスメディアはCriticalな物を見方までを提案してくれている媒体であり、その先は私たちに任せられているのではないだろうか。
「思いやりの培われる世界」
コンピュータは閉ざされた世界、冷たい機械の世界、一人で閉じこもりがちになる世界-そんな意識をお持ちの方まだいらっしゃいますか?
もちろん、コンピュータが単体で動いていた時代、又は閉ざされたネットワークの中で動いていた時代には、上記のような負のイメージがつきまとっていたかもしれません。そんな環境は人間とコンピュータの会話が中心の世界でした。
コンピュータがオープンネットワークの中に蜘蛛の巣状に張り巡らされた、インターネットの時代には、その様子は一変してしまったのです。それが今日のIT革命です。
コンピュータを介して人間と人間がコミュニケーションする世界の誕生です。ITを教育に役立てるということは、あくまでもコンピュータを使うことを覚えることではなくて、この便利になったコミュニケーションツールを用いて、人がどのように関係を構築していくかを考えていくことを中心とするべきです。
昨日、私の受け持っている私立中学での出来事です。
「先生、F1の写真が手に入りました。しかもハッキネンですよ!インターネットで素敵な写真があったので、撮影者本人にコンタクトを取って、使用許可を得ました!」
この学生の一言で、クラスの仲間の目がきらりと光りました。
一年間を通して、教材になるようなウェッブサイトを作成するというプロジェクトを通して、コミュニケーションを学んでもらう授業を展開しています。もちろんHTMLの書き方も教えますが、一貫して言い続けてきたことに、外部の人とのコミュニケーションを取ること、チームワークでプロジェクトを完遂することを説いてきました。
上記の学生は、これまでは誰か知らない人にお願い事をした経験はなかったようです。好きなことを題材としてスタートする私の授業では、学生の興味が中心になります。但し、チームを組んで取り組んでもらうので、まず仲間に自分の好きなことを説明しなければなりません。人に説明して、説得して、同じプロジェクトを進めていくことは、大変難しいことです。さらに調査の段階で、会ったこともない人とコミュニケーションをとって、ここでも自分の好きなこと、目指していることを伝えて、自分の夢に参加してもらうことをお願いするわけです。
何度もメールを書き直したようです。また、失礼なメールを書いて怒られたこともあったようです。そんなトライアンドエラーで学んだことが、夢を語り合うということだったのでしょう。自分中心のエゴでは相手を説得できません。相手を思いやる気持ちがあってこそ、同じ夢を語り合える同士として認め合うことができたのでしょう。いい友人が一人増えたわけです。
インターネットではそんな活動がスムーズに行われます。そこには大きな可能性が秘められているのです。
上記の学生の声を聞き、同じクラスの学生が動きはじめました。少年犯罪を調査しているチームは直接大学の先生とコミュニケーションをはじめることにしたようです。
現在国が何をしようとしているのか、国がらみの様々な研究会に参加している当事者を捜して、インタビューしたいと思いはじめたようです。法律がどのようにして生まれてくるのか、変化してくるのかを、実際に感じとるチャンスが生まれてくるかもしれません。
一人の感動がクラスを動かしはじめました。
アットマーク・インターハイスクールでも同じような動きが見え始めています。
「政府と参加型図書館(メディアセンター)」
政府がようやく気がついてくれた。
「IT革命を成功に導くためには、国民一人一人がネットの主役になり、知恵を出し合って新しい仕組みを作っていくことが重要であります。近く取りまとめる経済対策では、IT革命の飛躍的推進を第一の柱とし、学校や公共施設の高速インターネットを整備するとともに、全国民がインターネットを使えるよう一大国民運動を展開してまいりたいと思っています。それに必要な基礎技能習得のための思い切った方策を推進してまいります。国民が自由に利用できる公衆インターネット拠点の整備についても、できる限りの努力をしたいと考えておりす。」
森首相の第150回国会の開会の挨拶の一説だ。
→http://www.kantei.go.jp/jp/souri/2000/0921jpg_syosin.html
あとは実行に移してくれるのを願うばかりだが、もう一度ここで再確認しておこう。
「国民一人一人がネットの主役になり」という点を見逃さないで欲しい。せっかく世界中のさまざまな人が関わって、築き上げたインターネットの世界だ。情報のコストが下がり、個人個人が情報の受信者であり、発信者にもなれる環境をつくりあげてくれたわけで、舞台は整ったというところだろう。ただ、舞台はその上で演じる人がいなければ、単なる空間である。アクターの周りには、プロデューサーやディレクターも参加する必要があるだろうし、照明や大道具の人の協力も必要だ。そうした協力の中、感動を呼び起こす芸術が作り上げられる。もちろん観客も必要だろう。ただ、条件がそろっていても何も演じる題目がなく、ただ集まっているだけでは、せっかくのすばらしい小屋も雨宿りの役にしか立たないかもしれない。
インターネットの主役は私たち一人一人だ。
しかし、現状ではメールが便利などと言ってインターネットを利用するだけ利用して、貢献していない人、情報を発信していない人が多すぎはしないだろうか。
インターネット内に教育に使えるリソースが少ない、または信憑性に乏しいという批評もよく耳にする。そういう人に限って、自分では批評するだけで、何も情報を発信していない場合が多い。すばらしい情報ソースがないと言って嘆くことより、なければチャンスと理解して、自分で作り出す努力をして欲しいと思う。
学校をはじめとして、今後図書館もメディアセンター化してくるだろう。へたにバウチャーを発行して、パソコン教室に通わせるよりも、メディアセンターの充実に税金を投じるべきだと、ようやく気づいてくれたようだ。メディアセンターには国民一人一人の情報発信する場を整えて欲しい。参加型の図書館を作り出すことが私たちには急務だろう。
ということで、(株)アットマーク・ラーニングもメディアセンター作りは、当初から大きな目標として掲げてきた。ようやくその全貌を明かす時が近づいて来ている。参加型のメディアセンターを設立することによって、みなさんのご協力を必要としているのは、アットマークの先にいる我々の未来を託する学生達だ。批評者も必要で真摯に受け止めていくが、参加してくれる人はもっと必要だ。一人でも多くの賛同者にご協力して欲しいと願っている。
http://www.inter-highschool.ne.jp/appli_lec.html
「研究会」
先日「学習環境研究会」というプロジェクトに参加させていただいた。慶應義塾大学の学生達、教授達が中心に、さらには現役の教員や教育関係の社会人も参加している、何かが起りそうな場であった。
特に閉ざされた大学内だけでなく、広く外部の人達との接触をしていこうとしている姿勢は期待できる。
現在では4つの分科会に別れており、
1)情報社会と学びのデザイン
2)アイデンティティー教育研究会
3)公教育
4)家庭教育
メーリングリストを中心に活動していくようだが、ホームページはこれから発進される予定があるということ。オープンしたらまたここで紹介することにする。
今年アトランタで教育とITをテーマとしたカンファランス(NECC)で一緒だった社会人メンバーとも再会でき、それぞれが活躍していることを再確認させていただいた。
日本の政府もITと教育改革を前面に打ち出してきた昨今であるが、今後もこうした地道な議論が各地で盛り上がっていくことを期待したい。そして議論ばかりでなく、実利のある行動に移していってくれる人材の輩出を願っている。教育改革を待っている学生が目の前にいるからだ。アットマーク・ラーニングとして、我々も半歩進んだところを走りつづけていこうと努力を惜しまないつもりだ。
福澤先生は慶應義塾の目的として以下のような文も残している。
「慶應義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、窮行実践以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり。」
「教育現場の変化」
教育の改革は可能だろうかと問いにみなさんはどう答えるだろうか?
現在の教育システムの中、変化に対応できる、国や地方自治体の体制は時代の変化に対応できるのかどうかがポイントになるであろう。とするとやはり無理か?
現場での動きはどうか?教師はもう学生のことを本当に考えなくなってしまっているのだろうか?変化に対応できる柔軟な思考は止まってしまっているのであろうか?
教育の現場にいる人は、おそらくいずれの問題にも変化への対応は少しずつだが進んでいると答えるのではないか?
実際私もそう考えるものの一人だ。
一歩一歩ではあるが、確実に変化しつつあると考える。
その原動力となるのが、現場でのIT技術の応用だ。個々の需要に合うサービスを供給しようとする動きは、新しいスタイルの学習環境で試行錯誤されながらも、確実に事例を増やしてきている。
慶應義塾普通部で教員をやっている私だが、その授業は試験的とは言え(選択授業)、今後の教育の進むべき方向性を捉えた試みを行っていると考えている。
IT技術を教えるというよりはむしろ自己発見の場としてウェブを捉えた授業をこころがけている。ウェッブで利用できる教材をコラボレーションしながら学生自らが作ることを目的としたクラスを運営している。
但し、実際のクライアントである学生の需要をフルに満たしているか、というサービスの量の面から現在の教育現場を考えると、決して充分なものではないだろう。
学校では変化のスピードが遅いのだ。私の授業もはやく必修授業に育ってくれればと思う。
変化に柔軟に対応できるのは、やはり競争の原理の働く企業に軍配があがる。だからと言って、教育は企業だけで変革できると言えるだろうか?
一時的にリードしたと見えても、その実践者が増えない限り、賛同者が増えない限り、その変革のスピードもいつかは遅くなる可能性もある。
やはり社会そのものが変革していかなければならない。社会そのものが教育の現場と考えることができるとしたら、教育の変化は社会の変化と共振してくるはずだ。
ここで、社会の変化をそのシステムを形作る政治だけに頼ってはいけない。社会自体を支えているのはまぎれもなく私たち自身であるのだから。個々人の意識革命が必要なのである。社会人として、人に伝えたい情報または自分自身をどのくらい持っているのか、またそれを適切に伝えて実践しているのかがポイントとなる。
批評することは誰でもできるが、実践するのは難しいと感じている人も多いかと思う。
しかし、ここで他人事のように放っておいてはいけないのが、教育問題である。
大きなうねりとなる一歩として、実践家としてみなさんも自己変革して、一歩踏み出そう!
このような動きに参画したい人と、私たちは一人でも多くコミュニケーションをとっていきたいと考えている。学校の先生も塾の先生も、芸術家も隣のおじいちゃんも、21世紀を創っていく子供たちに伝えたいことはたくさんあるはずだ。教育の現場もこうした社会の動きに敏感になるべきだと思う。

