Small Office Home Office と呼ばれている勤務形態で働いている方が増えています。アットマーク・インターハイスクールを運営する(株)アットマーク・ラーニングもそうしたSOHO形態で働いていただいている方がいらっしゃいます。実は正社員の方が少ないのです。
日本IBMが完全在宅勤務制を開始します。誰でもということではないようですが、専門性を持って会社に貢献度が高い社員を対象に、育児、介護などの時間が家庭で必要な場合、子供が小学校を卒業するまで完全在宅勤務を認める制度を導入します。会社に一度も出社しなくても、仕事さえこなしていれば月給をもらえるシステムです。
朝起きて、家から出ていくのは学校に通う児童だけという生活が始まるわけです。
子供から見たら、どのように見えるのでしょうか?父親も母親も在宅なのに、自分だけが雨の日も、風の日も、雪の日も、歩いて20分かけて学区域外の小学校に毎日通わなければならないなんていう状況が起こりうるということです。
家庭を大事にするシステムがビジネス界に求められてきたということは、そうしないと優秀な人材が確保できないという、せっぱ詰まった状況があるからでしょう。逆に言うと、優秀な人材は時間と場所に縛られたくないという欲求があるということです。
せっかく、父親も母親も家庭にいるのに、教育は学校だけに任せておくという、高度経済成長の時代のなごりをいつまでも踏襲する必要性はあるのでしょうか?もっと積極的に子供達と交わる親の態度が必要なのではないでしょうか?他人任せ、教材任せ、教育の場所任せに勉強しなさいとお小言を言うのではなく、一緒に子供達と学習していく時間が持てるというチャンスが到来した時代なのだと私は考えます。
参考)http://www.mainichi.co.jp/digital/solution/archive/200002/17/3.html
「0に戻る時」
3月は卒業の季節。そこにはさまざまな別れがあり、それは新しい旅立ちをも意味します。そこで今月のリレーエッセイは「卒業」というテーマでおおくりします。
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私にとって卒業とは「0に戻る時」であったと考えている。
小学校の時は卒業式に答辞を読んだ。それまでの学校生活を振り返る文章を作成するには、いろいろな体験を振り返る時間が必要で、自分をみつめなおす時間をとらなければならなかった。大勢の前で読む文章を作り、発表するのは精神的にも大変なプレッシャーを感じたのを覚えている。そんな時、最後の最後で「今の自分を出すしかない」と開き直る方法を身に付けたのだった。
中学の時は卒業式での登板はなかったが、受験を初めて体験して、やはり自分を見つめなおす時間が取れたのだと思う。自分なりに新しくスタートする高校生活を前に、それまでの自分を振り返った時間を持ったのを覚えている。
高校の時には、受験に失敗して失意の中での卒業だったが、自分なりに好きなことをしてそうなったのだから仕方ないという達観があったのも事実だ。またリスタートすれば大丈夫、そんな気持ちを持っていたと思う。
大学の時は結婚騒ぎと一緒になり、それまでの人生を振り返る大きな転機となった。
常に学校の卒業時には自分を見つめなおす時間を持てたのは幸せだったのかもしれない。なんとなく、卒業という時間を無為に過ごすのではなく、それまでの自分を見つめなおし、裸になるまで自分で悩む時間を持ち、新たなスタートに向かっていったんリスタートをかけるという手法を、その後の人生でも応用してきた。その時に「結局自分は自分でしかない。それ以上でもないし、それ以下でもない。」「裸になろう。ゼロにもどろう。」と心の中で叫んでいたのだと思う。
大切だったのはそうした悩み多き時間を、友人とともに体験できたことだったと思う。なにも悩みをすべて打ち明けあったわけではないが、同じような体験の同窓会に対する思いを鼓舞してくれたことだけは確かだった。
今、アットマーク・インターハイスクールにも卒業に向けてがんばっている学生がいる。卒業という機会を最大限に生かし、自分探しをして欲しいと願っている。いったんゼロにもどって、新たなスタートを切るエネルギーを蓄える為の時間に使うことができたら、私たちの学校からの卒業の経験は有意義な人生の一コマとして記憶に残ってくれるものと信じている。同じように悩んでいる仲間がそこにいるからだ。
がんばれ!
「大切なのは準備」
提携校のジョン・ラッキー校長とひざをつき合わせて話し合ってきた。今回は心で会話しようとこころみ、つたない英語力ではあるが、じっくりと身振り手振りも含めてこころを開いてコミュニケーションを取って来た。
アットマークの仕事をするようになって既に10回近く、米国への出張を繰り返している。おかげではじめてゴールド会員扱いで旅をすることができたが、いずれにしてもエコノミークラス・シンドロームにならないよう、充分水分と運動を取るようにこころがけた。また、会議資料も日本で緻密に準備して行った為、今回の会議はこれまでで最も効率良く、ポイントが整理された情報を交換することができた。
ここで、言いたかったのは「大切なのは準備」であることだ。私たちは日常の生活で様々な障害を乗り越えながら生きている。乗り越えるために様々なことを学習し続けているわけだ。エコノミークラス・シンドロームを避けるにはどうした良いのか、会議を効率よくするにはどうしたら良いのか、何度か間違いを犯しながらも経験を積むことで、人は必ず学習していくわけだ。 どんな仕事をしようとも、または家庭での仕事であろうとも、準備が充分でなければ、満足のいく結果が得られない。つまり、準備の過程にはそれ相当の工夫も必要だということだ。
もし、一人の仕事のできる人がすべての準備を行ってしまったら、周囲の人は何も学習しないかもしれない。プロのコックが準備を怠るということはまずありえない。旬の食材を使うこと、調味料や火を入れるタイミング、季節による味付けの変化など、その時々の料理を創り出す工夫の中心作業は、やはり周到な準備だろう。しかも周囲の人たちにも自分の目標を伝えながら、適切な指示を出していくことも必要だ。伝えてもらえない秘伝は盗むしかないかもしれないが・・・いずれにしても秘伝は準備の中にある。
準備には情報の共有化が必要だと思う。アットマーク・インターハイスクールで言えば、学習計画であるコントラクト作りがそれにあたる。学生は自分のコントラクトをサポートティーチャーと情報共有しながら作成していく。自分の目的が何であるのか、その目的を実現するためには、途中でどんな目標をクリアしていかなければならないのか。そんなことを学生自らが考えて行く姿勢を学ぶ。
決して大人側の都合で、コントラクトを創り出す必要はない。つまり、パッケージ化されたものはサポートティーチャーから引き出すことはできない。サポートティーチャー側からパッケージものが出てきたら、それは誤った指導法でもあるとも考える。それぞれの学生の情報をいかに引き出し、夢、希望となる目的を一緒に発見し、それに対する準備を個別に設定していくことが必要だ。それには学生との情報の共有化がどうしても必要なのだ。
学生は一人一人それぞれの異なる目的、目標を持っている。そして実力、得意技、可能性、学習環境などの条件を考慮しながら準備を整えるわけである。サポートティーチャーとの情報共有を経ながら、最終の目的を達成する為に学習していくわけだ。
3月には学生に各自の学習の成果を発表できるチャンスが与えられる。様々なコントラクトを創り出してきた学生たちが、どんな形態で自己表現してくれるのかが、今から楽しみだ。きっとプレッシャーにあがっている学生もいるだろうが、最後に頼れるのは自分自身、自分がどれだけ準備ができたのかが彼らの自信につながっていくのだろう。完成形でなくても良いと思う。自分がどんな準備をしているのかを自己アピールして欲しいと願っている。
今回の出張で準備しそこなったことがある。風邪への対応だ。長時間乾燥した機内にいたこと、同行した者が風邪をひいていたことなどが重なり、かなりひどい目にあってしまった。ウィルスも学習して進化しているわけで、敬意を表さなければならないが、この戦いはしばらく続くことだろう。人類も学習は続けているのだが、風邪ウィルスの方が準備万端だったということか・・・
「総合的な学習の時間」
「総合的な学習の時間」は子供たちに受け入れられるか?結論から言うと、受け入れられるような環境を作り出せる教員がいれば可能であると私は考える。
学習には基礎学力、分析・批評力、創造力といった側面があることを忘れてはならない。昨今の学校教育では基礎学力への評価が高すぎた傾向があった。
教員も基礎学力を評価することは単純作業である為に、必然的に仕事の大半がそちらに傾倒してきた事実を実感しているはずだ。学校教育という学習環境の下では、暗記や基礎計算ができるかできないかを評価することが、最も結果を出しやすかったということだ。そこに来て、手間のかかる「総合的な学習の時間」の登場である。パッケージ化されたカリキュラムはないのか?と教員から不安があがってくる背景には、単純作業からの脱皮に戸惑っている労働者の姿が見え隠れしている。
従来の方法論では単純に割り切れない学習環境をつくらなければならない。確かにエネルギーのいることだと思う。しかし、ここで教員が大上段に関わって、「総合的な学習の時間」を定義付けしようとすると、本来の目的が達成できなくなる可能性が出てくる。「総合的な学習の時間」はパッケージ化されるべきではない。ここでは教員は一歩引いて、学習者の需要を分析することから始めるべきだと提言しておきたい。
情報の分析力、批評力、そして新たな情報の創造をめざせるような学習環境を整えることを目指せば、現状で足りない学習面を強化できるのではないか?基礎学力が弱かった学習者にも新たな側面でチャンスが与えられた場合、ある才能が教員にも見えてくる場合もあるだろう。そうした発見が日々感じられる時間こそ、教員にとっても「総合的な学習の時間」は生きた時間になってくるだろう。
まずは学習者一人一人をもう一度じっくりと見直してあげる時間をつくるべきだ。
具体的には学習者の得意な学習方法、学習環境を聞き出す努力が必要だ。
学習者のやる気を引き出し、足りないところを補うためにコラボレーション学習とチームティーチングを導入する。実は私がある私立中学で行っている授業と、アットマーク・インターハイスクールで行っている学習方法は、この方法論で実践してきている。
学習者自身が自分にあるもの、足りないものを感じ取ることができる環境、足りないものを補うためには自分で獲得する方法と人から伝授してもらう方法があると自覚できる環境、さらには人に自分が教えられることがあることを発見できる環境こそ、すばらしい学習環境であると考える。そんな環境を提供するように心がければ、
「総合的な学習の時間」は何も恐れるに足りないものであることが見えてくるはずだ。
「大学選択」
学生には学生固有のラーニング・スタイルがある。おそらく私にもそのラーニング・スタイルを自分でも認識していれば、周囲のみんなが選択するからという理由で、受験する大学を選ぶなんてことはしなかったかもしれない。自分の得意なこと、やりたいことをみつけるのは時間もかかれば、かなりのエネルギーが必要だ。自分に適切な大学を選ぶということは、そうした自分を見つめなおす充分な時間を確保しなかれば実現しないだろう。
現在大学では少子化の現象とともに、様々な入試制度が取り入れられてきている。自分の得意技を生かしてくれる大学を学生側が選べる環境がそろってきた。今こそ、前世紀の遺物の受験を捨て去り、サービスを受ける側が選択する大学選択試験を受けてあげる時代であることを、学生ばかりでなく、親御さんも大学側も認識すべきであろう。夢を実現する為の進学を真剣に考えてがんばって欲しい。
「大人になることは夢を失うことではない」
大人になることは夢を失うことではない。先日の成人式に各地で問題になっていた新成人達の姿を見ていてそう思った。確かに今の世の名、大人になっても夢を持ち続けるのは難しいと感じる時もある。
しかしそれが問題なのではない。21世紀を生き抜いていくはずの子供たちが、自分の夢を抱くことが難しいと感じていることが問題なのだ。夢を真摯に聞いてくれる仲間がいないこと、夢を実現する為に親がサポートしてくれないこと、子供の夢さえ聞いたことがない親がいること、そんな状況が心配なのだ。
いつの時代にも、子供は夢をみてきたはず。勉強に、仕事に追われ、夢を考える時間を奪われ、いつのまにか夢の存在すら忘れてしまった私たちが、今一度初心に戻って、この新世紀に勝ち取らなければならないものは、夢をみること、何かしたいと思うこと、一緒に創り上げたいと願うことなのではないか。
馴れ合いの仲間の中で大人の常識を打ち壊すことや個に埋没して人の生をゲームのように扱うことに夢を抱く自由を制限するつもりはないが、自由は生まれながらにして備わっているものではなくて、義務を果たすことで勝ち取ることであることを伝えていくことは大人の役目なのかもしれない。
大人も自分の夢をもう一度見直す時間を新世紀とともに勝ち取ることが必要だろう。
「なんでこの人あんなことに夢中になっているんだろう?」と周囲に思わせるような大人として今年もエンジンを始動していこうと思う。
「新世紀の小さな夢」
新しい世紀に期待して夢を語り合いましょう!
よほどのことがない限り自分は新世紀を迎えているだろうと思っていましたが、その瞬間一体何をしているのだろう、何を考えているのだろう?と良く考えていました。
生きているのか、死んでいるのか?やりたいことがたくさんあるのか、なんとなく時間をすごしているのだろうか?
そんな疑問に答える為に、または忘れる為に、これまで、ある時は勉強に、ある時は仕事に、わざと自分を追い詰めていた時期があったかもしれません。
ただ、数年前のインターネットが私に新世紀に歩むべき道を予測するチャンスを与えてくれたのです。
小さなツール(力)が世界をも動かす大きな流れ(マーケットの形成)に貢献する大革命になるであろうことは容易に予測できました。さて、そこで何をしようか。
自分は何に役立つのだろう。何をやりたいのだろう。
そして原点に立ち返ってみたのです。これまで自分が好きでやってきた活動(西洋紋章研究、カリグラフィー、スヌーカー)などを通して学ぶということの楽しさをみつけられたことが頭に浮かびました。
さらにインターネットで得た知識や仲間からの情報がその活動を支えてくれたのです。
学習とインターネットは親和性が良く、うまく活用することによって一人ではできなかったことも可能にしてくれると信じるようになりました。国内ばかりでなく、海外の専門家とのつながりも瞬時に確立してしまうのですから。
しかもやる気持ちさえあれば安価に情報を共有できます。
こんなすばらしいことができるんだと、一人でも多くの人に伝えたいという気持ちが、今の私の活動の基本になっているのです。
つまり、私の活動の基本はとても個人的な欲求から生まれたのです。学習は個人の願い、個人の夢をかなえてくれるひとつの道具なのではないでしょうか。好きなことからはじめる学習は確実に可能性を秘めているのです。
仲間や先生がすぐそばにいる状況ではいくつかの問題も発生します。いつか話せる、いつか聞くことができる、だから今はこの問題は解決せずに先送りにしよう。もともと好きな事でないから、勉強なんてしたくない。この勉強がなぜ自分に必要なのかよくわからない。そんな気持ちが生まれてしまう学生をこれまで何人も見てきました。
結局その甘えを引き締める方法として単純な競争意識を発生させようとしているのが現在の教育界の姿ではないでしょうか。効率が良いからという追い風も備わっているので、なかなか今のやり方を変えるには時間がかかるでしょう。一方で、こうした時間と場所に縛られた学校という環境にどうしても合わない学生が増えてきたわけです。いつでも聞けるという甘えから、もう誰にも聞きたくないという拒否感まで育ってしまった場合、集団の中での効率的であったはずの学習環境はその学生にとっては一変してしまうのです。
そんな環境をも変えてくれるのに役立つのがインターネットです。個人的欲求の学習の環境を変えてくれるインターネット、そしてそのツールがのもたらす世界を想像してみてください。
そこにはおそらくOne to Oneのサービスが展開されてくるのではないでしょうか。
また、そのサービスが蜘蛛の巣状に有機的にからみあった時、その力は巨大な世界をつくりあげてくれるでしょう。
そんな夢を抱いて私はこの新世紀を迎えたわけです。なんと幸せなことか。何しろまだまだやらなければならないことはたくさんあります。幸い賛同者を得て、今は一人ではないのです。
アットマークというひとつの集団が一歩一歩ではありますが、道をつくりはじめている。学生も家族もスタッフも、学習の新たな環境を作り上げようと一歩踏み出したのです。
さらなる飛躍の為に、自分自身、世紀末にリセットスィッチを押してゼロにもどそうと試みました。(少し休暇を取っただけですが・・・自分を見つめなおす時間を無理やり作りました。)
新世紀に新たなる一歩を踏み出せるよう心の準備をしておきたい。これから出会う学生に対しても、現在受け持っている学生に対しても、もう一度基本に戻って、また聞くことからはじめていこうと再確認しました。
あらたなコミュニケーションの中にはきっと新たな発見がある。その小さな発見を継続していくことで一緒に学習していこうと願っています。それが私の新世紀にいだいた小さな夢です。
0と1、結局ここが私のエネルギーの原点なのでしょう。いつでもこの基本を忘れずに新世紀を歩んでいきたいと誓いをたてたわけです。
「私学」
福澤諭吉が目指していたのはpublic schoolであった。public schoolを中国語の義塾という言葉をあて創設したのが、現在の慶應義塾である。ここで使った義塾とは「義捐金で運営される公共の学塾」の意味を指す。
cf)http://www.keio.ac.jp/pdf/sougou01.pdf
ここでの公共という言葉は決して国家主導型、官僚主導型という意味ではない。あらゆる権力から独立し、公共の益に貢献するという意味で使ったのであろう。
さて、そこで私学であるが、経済又は歴史的側面以外からも私は考えてみたい。
もともと学ぶという行為は個人的なものである。学問をするか、しないかは全て個人の責任の中で行われるべきだろう。国家や親の為に学問をしなければならない状況下では、いったんその第三者に対する評価が変わってしまった場合、目的を見失ってしまう。しかも、責任を第三者に転嫁してしまう。日本の将来を心配して、現在の若者に学識をつけなければいけないのだと大上段に構えて国家の利益を論じるより、国家そのものを形勢している個人自らが独立し、自尊の精神を持たなければならない。つまり個人の利益が向上しないかぎり、国家の利益は向上しないと考えている。
現代に官学と私学という言葉を使うのであれば、私は学問をする動機付け、視点として、指導する側の立場に立って論じるか、学習するものの立場で論じるかという、視点の違いで使い分けたい。私学は個人の心の中に存在している。いつでも、どこでも個人の心の中に自由に設立できる学校が私学である。アットマーク・インターハイスクールはそうした学習者の心の中に生き続ける学校でありたいと願っている。
「何の為に勉強するの?」
人は何の為に勉強するのでしょうか?学生も社会人も、人は同じ悩みを持っています。
社会人は何の為に仕事をするの?というのも付け加わりますが。
富国強兵の為に天皇制をフレームワークとしていた時代、国のため、一族のため、親のために青春時代を犠牲にしていた時は悩む必要もなかったのかもしれません。
資本主義というゲームの中で出世してお金を儲けることを最大目的としていた時は、不思議に思うこともなかったのかもしれません。
しかし、どの時代でも忘れてはいけないのは、自分で考え、実行してきたものがいたということです。偶然その時代を変革してきた人もいるかもしれませんが、いつの時代にもそうした人材が必ずいたはずです。
何の為に勉強するのか、働くのか、そして生きるのか、と自分を見つめなおした時、そこにあるのは宗教でも、哲学でもありません。そう、裸の自分という存在そのものが見えてくるはずです。
自分をみつける為に、自分の姿を映し出す鏡として、人は本を読み、映画や演劇を観て、芸術を鑑賞するのかもしれません。また、神秘的な数学の世界に浸り、雄大な自然と対峙することによって、見出すことのできるものも多いでしょう。仕事の中で自己実現を図ろうとするのも、ひとつの試みかもしれません。
人は感動する為に学習するのではないでしょうか?感動は人それぞれの感受性によって異なります。つまり、学習スタイルも人それぞれ違って良いはずです。
しかし、そこに感動する自分がいることだけは動かせない事実です。自分で見て、聞いて、考えて、感動する。その為に学習する自分がいても良いはずです。
社会構造がどう変わろうと、インディペンダント・ラーニングを実践する意義は大きいと考えたほうが良いかもしれません。
「家庭での教育と21世紀の親とは」
昨日、大学生と社会人の集まりで議論する機会を得た。各人様々な意見を持っており、しかもそれが自分の育ってきた環境に大きく左右される意見が多かった。とかく躾の問題に帰結しそうなテーマである。実際昨夜の会議もそこに議論が落ち着きそうだった。
結論から言うと私はそうした議論の終着を望まない。「コミュニケーション不足の解決」を私は主張したい。
歴史的に考えると、従来の家庭には宗教やイデオロギーなどでこうでなければならないという家庭像が暗黙の了解の中に存在していたのではないかという提言もあった。そうした呪縛から運良くか悪くかわからないが解放されてしまったのが、現代我々日本人が抱えている家庭ではないだろうかということだ。
どこでも同じ親と子の関係があるとは限らない。そこには暗黙の了解のルールが欠けてしまっている。そこで、家庭の教育とは、小学校までは躾が大切、大きくなったら親を乗り越える試練が必要というような議論を持ち込んでも、無意味になりつつあるのではないか。
「なぜ?」という疑問を閉じこめるほどの大きな力が働いていないからだ。
会社でも最近「なぜ?」という疑問ひとつひとつに回答を出していかなければ、人は動いてくれない。「朝は上司に挨拶しなければならない」とそこで議論しても仕方ないのだ。「挨拶をするとお互い気持ちが良いよ」というコメント入れないと、人は動いてくれそうにない。
親も子も「なぜ?」を繰り返しつつ、コミュニケーションを取ろうとする努力が家庭内ではより必要になってくると感じている。そのツールとしてITにも期待している私は論点が少しずれてしまっているのだろうか?そんな疑問を昨夜感じてしまった。
日々のサポート業務にもそうしたひとつひとつの「なぜ?」に答えていることが多くなってるのは当然の結果かもしれない。「聞く」態度がますます重要になってくるのが21世紀からの親への要求事項なのではないか?

