「政府と参加型図書館(メディアセンター)」

政府がようやく気がついてくれた。

「IT革命を成功に導くためには、国民一人一人がネットの主役になり、知恵を出し合って新しい仕組みを作っていくことが重要であります。近く取りまとめる経済対策では、IT革命の飛躍的推進を第一の柱とし、学校や公共施設の高速インターネットを整備するとともに、全国民がインターネットを使えるよう一大国民運動を展開してまいりたいと思っています。それに必要な基礎技能習得のための思い切った方策を推進してまいります。国民が自由に利用できる公衆インターネット拠点の整備についても、できる限りの努力をしたいと考えておりす。」

森首相の第150回国会の開会の挨拶の一説だ。
http://www.kantei.go.jp/jp/souri/2000/0921jpg_syosin.html
あとは実行に移してくれるのを願うばかりだが、もう一度ここで再確認しておこう。

「国民一人一人がネットの主役になり」という点を見逃さないで欲しい。せっかく世界中のさまざまな人が関わって、築き上げたインターネットの世界だ。情報のコストが下がり、個人個人が情報の受信者であり、発信者にもなれる環境をつくりあげてくれたわけで、舞台は整ったというところだろう。ただ、舞台はその上で演じる人がいなければ、単なる空間である。アクターの周りには、プロデューサーやディレクターも参加する必要があるだろうし、照明や大道具の人の協力も必要だ。そうした協力の中、感動を呼び起こす芸術が作り上げられる。もちろん観客も必要だろう。ただ、条件がそろっていても何も演じる題目がなく、ただ集まっているだけでは、せっかくのすばらしい小屋も雨宿りの役にしか立たないかもしれない。

インターネットの主役は私たち一人一人だ。
しかし、現状ではメールが便利などと言ってインターネットを利用するだけ利用して、貢献していない人、情報を発信していない人が多すぎはしないだろうか。

インターネット内に教育に使えるリソースが少ない、または信憑性に乏しいという批評もよく耳にする。そういう人に限って、自分では批評するだけで、何も情報を発信していない場合が多い。すばらしい情報ソースがないと言って嘆くことより、なければチャンスと理解して、自分で作り出す努力をして欲しいと思う。

学校をはじめとして、今後図書館もメディアセンター化してくるだろう。へたにバウチャーを発行して、パソコン教室に通わせるよりも、メディアセンターの充実に税金を投じるべきだと、ようやく気づいてくれたようだ。メディアセンターには国民一人一人の情報発信する場を整えて欲しい。参加型の図書館を作り出すことが私たちには急務だろう。

ということで、(株)アットマーク・ラーニングもメディアセンター作りは、当初から大きな目標として掲げてきた。ようやくその全貌を明かす時が近づいて来ている。参加型のメディアセンターを設立することによって、みなさんのご協力を必要としているのは、アットマークの先にいる我々の未来を託する学生達だ。批評者も必要で真摯に受け止めていくが、参加してくれる人はもっと必要だ。一人でも多くの賛同者にご協力して欲しいと願っている。

http://www.inter-highschool.ne.jp/appli_lec.html

「研究会」

先日「学習環境研究会」というプロジェクトに参加させていただいた。慶應義塾大学の学生達、教授達が中心に、さらには現役の教員や教育関係の社会人も参加している、何かが起りそうな場であった。

特に閉ざされた大学内だけでなく、広く外部の人達との接触をしていこうとしている姿勢は期待できる。

現在では4つの分科会に別れており、
1)情報社会と学びのデザイン
2)アイデンティティー教育研究会
3)公教育
4)家庭教育

メーリングリストを中心に活動していくようだが、ホームページはこれから発進される予定があるということ。オープンしたらまたここで紹介することにする。

今年アトランタで教育とITをテーマとしたカンファランス(NECC)で一緒だった社会人メンバーとも再会でき、それぞれが活躍していることを再確認させていただいた。

日本の政府もITと教育改革を前面に打ち出してきた昨今であるが、今後もこうした地道な議論が各地で盛り上がっていくことを期待したい。そして議論ばかりでなく、実利のある行動に移していってくれる人材の輩出を願っている。教育改革を待っている学生が目の前にいるからだ。アットマーク・ラーニングとして、我々も半歩進んだところを走りつづけていこうと努力を惜しまないつもりだ。

福澤先生は慶應義塾の目的として以下のような文も残している。
「慶應義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、窮行実践以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり。」

「教育現場の変化」

教育の改革は可能だろうかと問いにみなさんはどう答えるだろうか?
現在の教育システムの中、変化に対応できる、国や地方自治体の体制は時代の変化に対応できるのかどうかがポイントになるであろう。とするとやはり無理か?
現場での動きはどうか?教師はもう学生のことを本当に考えなくなってしまっているのだろうか?変化に対応できる柔軟な思考は止まってしまっているのであろうか?
教育の現場にいる人は、おそらくいずれの問題にも変化への対応は少しずつだが進んでいると答えるのではないか?
実際私もそう考えるものの一人だ。

一歩一歩ではあるが、確実に変化しつつあると考える。
その原動力となるのが、現場でのIT技術の応用だ。個々の需要に合うサービスを供給しようとする動きは、新しいスタイルの学習環境で試行錯誤されながらも、確実に事例を増やしてきている。
慶應義塾普通部で教員をやっている私だが、その授業は試験的とは言え(選択授業)、今後の教育の進むべき方向性を捉えた試みを行っていると考えている。
IT技術を教えるというよりはむしろ自己発見の場としてウェブを捉えた授業をこころがけている。ウェッブで利用できる教材をコラボレーションしながら学生自らが作ることを目的としたクラスを運営している。

但し、実際のクライアントである学生の需要をフルに満たしているか、というサービスの量の面から現在の教育現場を考えると、決して充分なものではないだろう。
学校では変化のスピードが遅いのだ。私の授業もはやく必修授業に育ってくれればと思う。
変化に柔軟に対応できるのは、やはり競争の原理の働く企業に軍配があがる。だからと言って、教育は企業だけで変革できると言えるだろうか?
一時的にリードしたと見えても、その実践者が増えない限り、賛同者が増えない限り、その変革のスピードもいつかは遅くなる可能性もある。

やはり社会そのものが変革していかなければならない。社会そのものが教育の現場と考えることができるとしたら、教育の変化は社会の変化と共振してくるはずだ。
ここで、社会の変化をそのシステムを形作る政治だけに頼ってはいけない。社会自体を支えているのはまぎれもなく私たち自身であるのだから。個々人の意識革命が必要なのである。社会人として、人に伝えたい情報または自分自身をどのくらい持っているのか、またそれを適切に伝えて実践しているのかがポイントとなる。
批評することは誰でもできるが、実践するのは難しいと感じている人も多いかと思う。
しかし、ここで他人事のように放っておいてはいけないのが、教育問題である。

大きなうねりとなる一歩として、実践家としてみなさんも自己変革して、一歩踏み出そう!
このような動きに参画したい人と、私たちは一人でも多くコミュニケーションをとっていきたいと考えている。学校の先生も塾の先生も、芸術家も隣のおじいちゃんも、21世紀を創っていく子供たちに伝えたいことはたくさんあるはずだ。教育の現場もこうした社会の動きに敏感になるべきだと思う。

「統計」

東京都が文部省の依頼を受けて実施したある統計が発表された。
「11年度 生徒指導上の諸問題に関する調査の結果」である。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2000/08/60A8N200.HTM

数字で示してもあまり実感がわかないと思うので傾向だけでも掴んでいただきたい。

暴力行為 減少
いじめ 減少
不登校 増加

http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2000/08/DATA/60A8N900.JPG
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2000/08/DATA/60A8NA00.JPG

という傾向である。

中学生暴力行為では対教師への暴力は逆に増加している。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2000/08/DATA/60A8N500.JPG

何を示唆しているのであろうか?

不登校になる理由として、暴力行為や、いじめが原因でない学生が増えているということではないだろうか?

ではなぜ不登校になるのか?
そうした疑問に答える数値として「不登校の態様」があるが、どうも釈然としない。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2000/08/DATA/60A8NE00.JPG

特に無気力、不安などの情緒的な混乱などという理由が挙げられているが、無気力、不安の原因は何なのか、もう少しつっこんだ追求ができないものか?

授業がおもしろくないのだろうか?家族の関係が不安を呼び起こす原因なのか?
いずれにしても、教師と学生、学生と親御さん、親御さんと教師の間で、充分なコミュニケーションが取れているかどうか、今一歩踏み込んだ統計が欲しいところである。現時点の学校教育の中で孤独な学生を生み出してはいないだろうか?

第三者的な視点でこの問題を捉えるだけで良いのか?私も含めてみなさんも、ぜひ自戒してみる時間を持って欲しいと思う。

アットマーク・インターハイスクールではコミュニケーションを最重要視する学習方法を実践している。

「不登校とカウンセラー」

1999年度の不登校の児童・生徒が過去最高の約13万人に達していたことが、 8月4日の文部省の学校基本調査速報で明らかにされたようだ。ここでは数の信憑性はあえて問題にしないでおく。

対策として、スクールカウンセラーを制度化して、学生、教員、保護者のメンタル面をサポートしていくことを目指しているようだ。

「集団生活になじめない子どもが増えている」(文部省中学校課)という冷静な言葉があるようだが、「集団生活になじめない親もいる」「集団生活しかコントロールできない教員もいる」と言い換えた場合、本当にカウンセラーを増やせば解決につながるのか疑問だ。

学生同士もお互いのカウンセラーになり、保護者も子どもの声を聞く、教育者は個々人の学生の要望にどこまで耳を傾けられる時間を作るか、そうした基本的な作業の見直しをするべきではないだろうか?

相手の話を聞くという基本動作が社会で欠如しつつあると感じる昨今だが、インターネットの中では盛んにコミュニケーションを求める声が聞こえる。学生にホームページを作らせると必ずと言って良いほど、コミュニケーションボードやチャットルームのプログラムを埋め込みたいという要望があることは、私自身教壇に立つ立場として何度も経験していることだ。

カウンセラーを設置すれば、それで責任は逃れられると考えがちになることだけは避けていただきたい。学校の現場からは「教師にとっても心強い」「保護者もカウンセラーの存在を意識し相談を受けようとする意識が高まっている」とコメントがあるようだが、あくまでもカウンセラーはきっかけであり、社会全体でこの問題に取り組んでいかなければならないことであることを忘れてはならないと思う。

「アメリカの教育に対する活力」

 マリアエマとビクトリア、これから日本でも名前を聞くことになるであろう二人の存在を少し紹介しよう。

 マリアエマは大学で教育を専攻し、ADD児童や、ADHD児童の診断テストを行うことを仕事にしていた。そんなことをしている間にふと感じたのがADD やADHD児童は他の学生に劣る存在ではなく、ひとりひとり光り輝く星を心の中に持っているということだった。その後診断テストは、劣っているものを発見するタイプから優れている点を探し出すタイプへと進化する。それが、ラーニングスタイルを発見するプロファイルに変わってきた。

 ビクトリアは自分の子供の評価がホームスクールとパブリックスクールで、圧倒的に異なるのを感じていた。それ以来、様々な専門家に会いに行き、自分の体験を実証する理論を探し求めていた。そしてマリアエマと出会った。二人はその後、ホームスクーラーのサポートティーチャーとして実践を踏むことになる。

 今私は、この二人の実践するラーニング・サクセスというサポートティーチャーとしてコーチングスキルを学ぶ講習会に参加するため、ロサンゼルスまで来ている。こうした、民間の活力が、米国の教育を少しずつ変えてきたと言えるであろう。

 一方で、トラディショナルな学校の教員達はいかがであろうか?先月はアトランタまで出かけていき、NECCという全米の教員達の会合に参加してきた。教育でコンピュータをどのようにして活用しているか、情報交換をする場であった。実はこうしたトラディショナルな教員の中にも、かなりエネルギッシュに現在の教育の在り方を考え直そうとしている人たちが多いという実感を得た。なにせ、広大なカンファランス会場で目一杯講義が組まれていたし、展示会に参加していた企業の力の入れ方も、日本のビジネスショーに匹敵するほど半端ではなかった。

 こうしたひとつひとつの活動が、今後のアメリカの教育界に何らかの影響を与えていくことは間違いない。しかも、昨今のインターネットブームにより、資金が教育界に舞い込んできている。

 今回のロスアンジェルスの研修でも、少ないが学校の現場の先生の参加もあった。研修生として参加している人、実践している教育方法を講義してくれる立場で参加している人と様々だが、ホームスクール、学校の区別なく彼らが見ているのは学習者そのものであることを改めて実感させられた。NECC の大会に比べると、いささかこじんまりとした研修会であったが、そうしたエネルギーのある方たちと、直にコミュニケーションを取っていける機会が得られたことは貴重なことだ。

 NPOであれ、国家予算を使っている事業であれ、この一点を見失わなければ、日本も救われる術は見つかるかもしれない。

「bbs的思考とインターネット的思考」

個人のインターネット活用は「草の根的NPO的市民運動的な発想から誕生したのです」という日野氏の発言は的を得ていると思う。そこで、教育とインターネットという観点に立った時に、まず私たちがやらなければいけないことは、インターネットを通して学習者にそのツールの存在意義を知らしめることであると私は考えている。

日本でも電子通信ツールの発展は限られたユーザーを限定とするBBSシステムから発展してきた。Niftyなどの巨大な掲示板システムを会員向けに公開して、限られた世界で発言しあうことからスタートした。限られた世界には限られた世界のルールが適用していた。コードネームやニックネームでの発言によって、個人を特定することを避けることがあたかもできるような錯覚を生む場も提供されていた。

しかし、インターネットはその発展形態からしても、BBS文化とは異なった文化を持っていた。例えば、Niftyのインターネットフォーラムなどではニックネームなどの発言を禁止していた。軍事ツールから教育ツールに変わることによって、インターネットは公的なツールとしての位置づけがはじめからなされたいたわけである。NPO的な組織としてインターネットを発展させようとしていた善意の人々の集合体があってこそ、インターネットが我々の生活の中に浸透してくるようになったわけである。

私は子供たちにBBSとインターネットのマナーの違いを良く話す。子供たちはホームページを作成すると、必ずと言って良いほど、自分のBBSを付け加えようとする。プログラムを取り付けるのに昨今ではそれほどハードルが高い訳ではない。小学生でもやろうと思えばできる程度のことだ。しかし、そこでの発言方法についてはまったくと言って良いほど、子供たちには伝わっていない。今の教育がまずしなければならないことは、この点であると思う。

インターネットを通じて、人と人がつながっていることの大切さ、相手を思いやる心、ひいては全世界の人間の為にいったい自分が何が提供できるかを考える術を、伝授していかなければならない。

人のものを勝手に取ってはいけないこと、相手を納得させるにはそれなりの話し方があること、自分が欲しい情報を相手から受け取る時には相手が動きやすいように仕組んであげること。そんな処世術も必要になってくる。

また、インターネットを利用してビジネスを行っている企業にも言いたい。利用して利益をむさぼることばかりでなく、インターネットを利用するからには、社会貢献をするべきであるということを。インターネット上に企業として何が貢献できるかをしっかりと見据えた上で活動して欲しい。とりわけ、インターネットを使って学習していく子供たちが自由に使える教材を企業は提供できるのではないかと思う。ひとつひとつの企業がウェッブ上で企業資産を教材化していく、そうした活動の可能性を一緒に考えていきたいと思う。

「遠隔教育とセルフエスティーム」

先日、「セルフエスティーム」がアメリカの教育の目標になっているとのご意見を伺う機会があった。果たして、日本はいかに。

Be different.が美徳として考えられているのであろう。そう言えば、アップルもThink differentなんていう標語を宣伝している。やはりアメリカ企業だ。

今日、ある授業を見せていただいた。遠隔授業をコンピュータ通信によって実現しようという授業だ。遠隔の教室にいる学生にむかって、貴重な写真や、通常では目にすることのできない物を見せるということ自体はすばらしい。ただ、集合的な授業を実施するという点に絞って考えると、少し考えさせられる。

もし私が実施するなら、そうした資料をアーカイブ化することに徹する。また、アーカイブ化することを学生自らに行ってもらうプロジェクトを運営したい。そして、できた資料そのものの利用方法を後輩に自由にして使わせてあげることこそが、これからの教育に必要なことではないだろうか?

同時中継をできることは技術的にはすばらしい。しかし、それがインターネット教育かと言えば、ノーと言わざるを得ない。衛星放送を利用した、塾の全国統一授業がうまく運用できていないという意見もある。情報を発信する側の理由で、受信する側が制限を受けること自体、セルフエスティームを高める教育方針とは対峙する概念なのだろう。

セルフエスティームを高めるには、まず誉めること、また感情を理解してあげることが大事なのだという。やはり、One to Oneの対応ができないかぎり、実現不可能な教育理念なのかもしれない。それを理解した上でのことか、アメリカでのインターネットを活用した、One to One Marketing手法は着実に教育の世界に影響を与えようとしている。

この号が発行されるときには、アメリカの教育でのコンピュータ利用のカンファランスに出席している。しっかり確かめてこようと思う。セルフエスティームを高める教育に、Be differentを尊重する教育に、インターネットがどのように利用されているのかを。

「デジタル・デバイドと教育」

みなさんはデジタル・デバイドという言葉を聞いたことがありますか?94年の夏から秋にかけて友人と話していたことが実際に起きているという事実を今日あるフォーラムで再確認してしまいました。

九州・沖縄サミットで日本がイニシアティブをとろうとしている「IT憲章」では、途上国と先進国との間のデジタル・デバイドを問題にするということです。

では日本は一体どちらに属するのでしょう?もちろんサミットの会議なので、日本は先進国に属すると考えられますが、本当にいままでの先進国がこれから先も情報先進国になることができるのでしょうか?

みなさんは自分のホームページを持っていますか?インターネットで情報発信をしている人が、どれだけ自分の周りにいるのか、良く考えてみましょう。既にアジアの中でも日本は情報途上国になっているのではないでしょうか?

デジタル・デバイドの問題は、国内の所得格差にもつながる問題としても注目されています。日本でも年収1200万円以上の家庭でのコンピュータ導入率が96%、300万円以下の家庭では14%というデータがあるようです。

ホームスクーラーとトラディショナル・スクーラーの間でもデジタル・デバイドの問題は起きてきているようです。先日の私どもの記念講演会でも、米国ギャラップの調査によると、ホームスクーラーは一般学生よりも高学歴層の親を持っている率が高いという結果がありました。高学歴層の平均収入が高く、収入が高い家庭のコンピュータ普及率が高いのであれば、やはりここでもデジタル・デバイドが起こっていると言えます。

一体何が起きているのでしょう?

日本は中流階級が多いので、デジタル・デバイドの問題は起こり得ないという考えに躍らされていませんか?実は既に日本でも起きている現象なのです。

現代の「読み、書き、そろばん」の道具であるコンピュータを覚えるのは難しいと、避けている方もいますが、本当にそれでよいのでしょうか?企業にも学校にも管理する側で、コンピュータを使えないことを豪語する方もいます。
既にインターネットを中心に公募している企業もあれば、就職前にコンピュータ教室にかけこむ学生もいる現代の日本で、本当に求められている教育とは一体なんでしょう?

もちろん、パソコンのソフトを扱う能力を問うているのではありません。インターネット革命により起こっている事実を受け入れて、そこで生き抜くために基本的な知識を教育は提供するべきです。その為の人材の育成、サービスの充実をはかるのに、現在の教育システムが社会に適応していないのなら、自分たちの力であらたな教育の機会を創造していくしかありません。

「ナショナル・ミニマム」

教育のナショナル・ミニマムとは何か?先日ある会合に参加する機会を得て、この言葉に遭遇した。学生に最低限得て欲しい国民としての知識ということになるであろうか。ナショナル・ミニマムを身につけさせる業務を行っている団体を学校と呼び、税金を投入できる団体として国が認めるようだ。税金の使い方を論議する時、良く使われる言葉らしい。

ナショナル・ミニマムを身につけることができたかどうか学生に確認するには、統一テストが必要になるということであろう。一方、ナショナル・ミニマムを教えている団体の統一テストは聞いたことがない。税金を投入しているからには、このナショナル・ミニマムを必ず理解させることが学校の義務だとされているので、当然行われていることとして考えられているようだ。

さて、世はインターネットの時代である。世界の垣根を取り払おうとしている時代である。この世界ではナショナル・ミニマムがどこまで通用するものであろうか?むしろインターナショナル・ミニマムを提示するべきではないだろうか。

ネチケット(ネットワークエチケット)という言葉も最近耳にする方も多いかと思う。義務教育の最終学年である中学3年生でも相手を納得させる手紙、自分の意志を正確に伝える手紙を書けない学生が増えている。ネチケットの前にこうした自己表現をもできない学生をを生み出してしまっているのが、このナショナル・ミニマムを義務として強いられている学校の教育現場の実状であろう。ネットワークを利用する場合、最低限このネチケットを理解させることは、ぜひミニマムに取り入れて欲しい事項だ。

アットマーク・インターハイスクールでは、まずメールでのコミュニケーションを中心に学習がスタートする。ここでは、自分を表現すること、手紙を書けること、メールを使いこなすことは日々の活動の中で自然に見につくように仕組まれている。言い換えると、そこからスタートしなければ、実際の学習は何もスタートしない。すでにそこには内向きのナショナル・ミニマム的な学習ではなく、世界にも通用するインターナショナル・ミニマムの知識を獲得するベクトルが働いている。

必要とされているサービスの需要があるからこそ、供給しているにすぎない。税金を補助金として利用することによって国歌斉唱や国旗掲揚が義務として課せられるか否かという問題に立ち入ること問題提起しているわけではない。本当に必要とされているサービスを提供できているか否かで、学校も評価されるべきではないかと思う。

公的な教育とサービスの教育を分ける考え方もあるようだが、サーバーがありクライアントがあるコンピュータの世界ではネットワークサービスが不可欠なように、教育を提供する側と受けたい側が存在するところに適切なサービスが行き届いているか否かを論議する時期ではないだろうか。マシンを止めずサービスを提供しながら、少しずつプログラムを修正していくのか、一度リスタートしてすすめていくのか、新たなコンピュータを作り上げるのか多少の差は出てくるであろうが、求めるところは一緒であって欲しいと切に願う。