先日、「セルフエスティーム」がアメリカの教育の目標になっているとのご意見を伺う機会があった。果たして、日本はいかに。
Be different.が美徳として考えられているのであろう。そう言えば、アップルもThink differentなんていう標語を宣伝している。やはりアメリカ企業だ。
今日、ある授業を見せていただいた。遠隔授業をコンピュータ通信によって実現しようという授業だ。遠隔の教室にいる学生にむかって、貴重な写真や、通常では目にすることのできない物を見せるということ自体はすばらしい。ただ、集合的な授業を実施するという点に絞って考えると、少し考えさせられる。
もし私が実施するなら、そうした資料をアーカイブ化することに徹する。また、アーカイブ化することを学生自らに行ってもらうプロジェクトを運営したい。そして、できた資料そのものの利用方法を後輩に自由にして使わせてあげることこそが、これからの教育に必要なことではないだろうか?
同時中継をできることは技術的にはすばらしい。しかし、それがインターネット教育かと言えば、ノーと言わざるを得ない。衛星放送を利用した、塾の全国統一授業がうまく運用できていないという意見もある。情報を発信する側の理由で、受信する側が制限を受けること自体、セルフエスティームを高める教育方針とは対峙する概念なのだろう。
セルフエスティームを高めるには、まず誉めること、また感情を理解してあげることが大事なのだという。やはり、One to Oneの対応ができないかぎり、実現不可能な教育理念なのかもしれない。それを理解した上でのことか、アメリカでのインターネットを活用した、One to One Marketing手法は着実に教育の世界に影響を与えようとしている。
この号が発行されるときには、アメリカの教育でのコンピュータ利用のカンファランスに出席している。しっかり確かめてこようと思う。セルフエスティームを高める教育に、Be differentを尊重する教育に、インターネットがどのように利用されているのかを。
「デジタル・デバイドと教育」
みなさんはデジタル・デバイドという言葉を聞いたことがありますか?94年の夏から秋にかけて友人と話していたことが実際に起きているという事実を今日あるフォーラムで再確認してしまいました。
九州・沖縄サミットで日本がイニシアティブをとろうとしている「IT憲章」では、途上国と先進国との間のデジタル・デバイドを問題にするということです。
では日本は一体どちらに属するのでしょう?もちろんサミットの会議なので、日本は先進国に属すると考えられますが、本当にいままでの先進国がこれから先も情報先進国になることができるのでしょうか?
みなさんは自分のホームページを持っていますか?インターネットで情報発信をしている人が、どれだけ自分の周りにいるのか、良く考えてみましょう。既にアジアの中でも日本は情報途上国になっているのではないでしょうか?
デジタル・デバイドの問題は、国内の所得格差にもつながる問題としても注目されています。日本でも年収1200万円以上の家庭でのコンピュータ導入率が96%、300万円以下の家庭では14%というデータがあるようです。
ホームスクーラーとトラディショナル・スクーラーの間でもデジタル・デバイドの問題は起きてきているようです。先日の私どもの記念講演会でも、米国ギャラップの調査によると、ホームスクーラーは一般学生よりも高学歴層の親を持っている率が高いという結果がありました。高学歴層の平均収入が高く、収入が高い家庭のコンピュータ普及率が高いのであれば、やはりここでもデジタル・デバイドが起こっていると言えます。
一体何が起きているのでしょう?
日本は中流階級が多いので、デジタル・デバイドの問題は起こり得ないという考えに躍らされていませんか?実は既に日本でも起きている現象なのです。
現代の「読み、書き、そろばん」の道具であるコンピュータを覚えるのは難しいと、避けている方もいますが、本当にそれでよいのでしょうか?企業にも学校にも管理する側で、コンピュータを使えないことを豪語する方もいます。
既にインターネットを中心に公募している企業もあれば、就職前にコンピュータ教室にかけこむ学生もいる現代の日本で、本当に求められている教育とは一体なんでしょう?
もちろん、パソコンのソフトを扱う能力を問うているのではありません。インターネット革命により起こっている事実を受け入れて、そこで生き抜くために基本的な知識を教育は提供するべきです。その為の人材の育成、サービスの充実をはかるのに、現在の教育システムが社会に適応していないのなら、自分たちの力であらたな教育の機会を創造していくしかありません。
「ナショナル・ミニマム」
教育のナショナル・ミニマムとは何か?先日ある会合に参加する機会を得て、この言葉に遭遇した。学生に最低限得て欲しい国民としての知識ということになるであろうか。ナショナル・ミニマムを身につけさせる業務を行っている団体を学校と呼び、税金を投入できる団体として国が認めるようだ。税金の使い方を論議する時、良く使われる言葉らしい。
ナショナル・ミニマムを身につけることができたかどうか学生に確認するには、統一テストが必要になるということであろう。一方、ナショナル・ミニマムを教えている団体の統一テストは聞いたことがない。税金を投入しているからには、このナショナル・ミニマムを必ず理解させることが学校の義務だとされているので、当然行われていることとして考えられているようだ。
さて、世はインターネットの時代である。世界の垣根を取り払おうとしている時代である。この世界ではナショナル・ミニマムがどこまで通用するものであろうか?むしろインターナショナル・ミニマムを提示するべきではないだろうか。
ネチケット(ネットワークエチケット)という言葉も最近耳にする方も多いかと思う。義務教育の最終学年である中学3年生でも相手を納得させる手紙、自分の意志を正確に伝える手紙を書けない学生が増えている。ネチケットの前にこうした自己表現をもできない学生をを生み出してしまっているのが、このナショナル・ミニマムを義務として強いられている学校の教育現場の実状であろう。ネットワークを利用する場合、最低限このネチケットを理解させることは、ぜひミニマムに取り入れて欲しい事項だ。
アットマーク・インターハイスクールでは、まずメールでのコミュニケーションを中心に学習がスタートする。ここでは、自分を表現すること、手紙を書けること、メールを使いこなすことは日々の活動の中で自然に見につくように仕組まれている。言い換えると、そこからスタートしなければ、実際の学習は何もスタートしない。すでにそこには内向きのナショナル・ミニマム的な学習ではなく、世界にも通用するインターナショナル・ミニマムの知識を獲得するベクトルが働いている。
必要とされているサービスの需要があるからこそ、供給しているにすぎない。税金を補助金として利用することによって国歌斉唱や国旗掲揚が義務として課せられるか否かという問題に立ち入ること問題提起しているわけではない。本当に必要とされているサービスを提供できているか否かで、学校も評価されるべきではないかと思う。
公的な教育とサービスの教育を分ける考え方もあるようだが、サーバーがありクライアントがあるコンピュータの世界ではネットワークサービスが不可欠なように、教育を提供する側と受けたい側が存在するところに適切なサービスが行き届いているか否かを論議する時期ではないだろうか。マシンを止めずサービスを提供しながら、少しずつプログラムを修正していくのか、一度リスタートしてすすめていくのか、新たなコンピュータを作り上げるのか多少の差は出てくるであろうが、求めるところは一緒であって欲しいと切に願う。
「3C Thinking」
葉山での講演会で以下のような提言を行った。
教育の目的を考えるとき、私はこう考える。
3つのCの考え方を身につけること。
1つはCommon Thinking。
一般常識というレベルであろうか。重箱の隅まで知っていたら、クイズ王か入試王だろう。
2つめはCritical Thinking。
大学で良く言われる考え方だ。この考え方ができる人間は大学教授か評論家になれるかもしれない。
3つめはCreative Thinking。
言わずもがな、発明王になれるかな。新しいコンピュータシステムも考えられるかもしれない。
但し、この考え方は1から3という一方通行の上昇レベルと捉えるべきではない。人それぞれ、ラーニングスタイルがあり、もちろん、その思考方法は違って当然である。
Common Thinkingに偏りすぎてもいけないし、Critcal Thinkingだけでも物足りない。
Common Thinking 50%、Critical Thinking 40%、Creative Thinking 10%という感じでも良い。ただし、ひとそれぞれあっても、Creative Thinkingを大切にすることだけは見逃せないのではないだろうか。
人が生きている意味を、見つけ出すには、自分で何かを創り出すことを目指すことを、おざなりにはできないと思う。せっかくこの世に生を受けたからには、何かを残したいと人は思うからだ。
日本人は一般的にCommon Thinkingが強く、Critical Thinking, Creative Thinkingには弱いように感じるかもしれないが、我々にも必ずトレーニングをすれば、3つのCを獲得することはできるはずだ。
美術、音楽にしてもしかり。文学、数学、科学にしてもしかり。
Creative Thinkingをトレーニングする方法を、今後の日本は模索しなければならないのではないか。
何か創ってますか?
デジタル化して情報共有してますか?
ホームページで発言していますか?
そんな気持ちのある人をアットマーク・インターハイスクールは歓迎します。
「社会の教育力」
4月22日、私は葉山にいた。この時期になると毎年友人からお誘いがかかるからだ。
葉山では8年ほど前から、地元に住んでいるアーティストを中心に、葉山芸術祭なるイベントを催している。実は私は以前この芸術祭の公式ホームページの作成をお手伝いしたことがある。そんな縁で、葉山には良く顔を出す機会がある。
しかし、今回は少しニュアンスを変えてみた。もっと積極的に葉山と取り組んでいけないか、様々な方と議論も交えながら、新たな試みを始めたわけだ。今回は「教育フォーラム『学びの選択肢』-「学びの場」と「地域」- 」という題目で、講演を行った。
アットマーク・インターハイスクールは2000年4月に開校した。学校説明会などで良く聞かれる質問に、インターネットやコンピュータの世界に学生が閉じこもることが多いのではないか、教育は実際に対面で行わないと十分なサービスが提供できないのではないか、そんな問いかけが含まれるのは、想像がつくと思う。
しかし、アットマーク・インターハイスクールは、決してコンピュータだけでサービスを提供するシステムではない。もっと可能性のあるシステムだ。
では実際にどのように、学生にコンピュータやインターネット以外の学習のチャンスを提供するべきだろうか。私たちはこう考える、「地域にも教育力がある」と。
学生は日本全国、いや世界中に広がって行くであろう。それが、インターネットをツールとしたビジネスに共通して言える可能性である。その時に、学生はデジタルだのアナログの回線の中だけに生きることを選択するのだろうか。もちろん、その世界に入り込んでしまった人は、それなりに楽しみを味わっているであろう。しかし、一方でインターネット技術により勝ち得た、時間と場所からのrelease from bandageをうまく利用して、自分なりに時間と場所を活用する術を発見していくものも増えていくであろう。そんな時に必要になってくるのが、地域の教育力である。
葉山には地域の教育力があると感じている。それはここ数年来かかわってきた人たちから、熱いエネルギーを感じるからだ。ただ、それが、うまく教育と結びついていない。情報を発信する人と、受信する人、情報を分け与えたい人と情報を取得したい人が、うまくリンクできていないという、その他の地域でも起こっている現象がここでも起きている。ここで、インターネット技術を使わない手はない。そんな思いで以前、ホームページを作らせていただいた。
アットマーク・インターハイスクールの学生がこうした地域の教育力を甘受できるよう、環境づくり、ネットワークづくりをしていくのが私たちの役目だ。現実の公立学校でもそうした動きは見え隠れしているが、学校長権限で会議を開催する程度であろう。実際に地域の教育力を持った人々と、学校を結びつけるには様々な問題が横たわっているようだ。
私たちは幸い私企業である。私企業であるからには、クライアントの要望に従って、その需要に応えていくシステムづくりが、企業存続の命だ。すばやい対応で、地域の教育力のネットワーク化にも尽力を続けていきたいと思っている。そんな活動がアッマーク・インターハイスクールには課せられていると感じている。
「アットマーク・インターハイスクール入学者に贈ることば」
去る4月9日、アットマークインターハイスクールの入学式が行われました。その日、学長から入学者に贈った言葉です。
1 アットマーク・インターハイスクールは0から1を生み出す学生をサポートします。
2 アットマーク・インターハイスクールは学習者の時間と場所の制限を解放します。
3 アットマーク・インターハイスクールは新たに創り上げる新時代の学校です。
クリエーティブ・ラーニングを提唱します。
各自が自立した学習方法である、インディペンダント・ラーニングを実践します。自分が自分の先生になるのです。まずは、自分の夢が何か、何をやりたいのかを考えてください。そして、最終的にはホームページを作成してみてください。自分をどう表現するかは、自分しかわかりません。最初はきっと真っ白なバックグランドしか、作れないかもしれません。そんな時こそ、サポートティーチャーや周囲の方たちとコミュニケーションを取って、自分を見つけだしてください。そこにひとつひとつ文章をつけ、色を付け、絵を描いていきましょう。ページができあがった時、そこにはクリエーティブ・ラーニングを実践したあなたの姿が映っているはずです。そんなページは自分の為の、学習結果にもなるし、インターネットで活動している世界中の人たちの誰かにとっては、すばらしい教材になっているかもしれません。ここで、クリエーティブ・ラーニングの方法を学んでいただいた学生は、必ず今後の世界でも活躍してくれる人材に育ってくれると思います。実際にアメリカではこのようなスタイルで学んだ学生が社会に出て、活躍する機会が増えていると聞いています。
インターネットをフル活用します。
インターネットという技術が、私たちの生活から、時間と場所の拘束をなくしてくれようとしています。インターネットを道具として使うと、仕事もSO HOという家庭を中心としたスタイルに変化しようとしています。学校も同じです。みなさんが、インターネットを活用して家庭で学習するということは実は最新のトレンドなのです。夢を持って、未来の新しいタイプの学校の基礎となる登校に参加されたみなさんは、歴史上もとても重要な人間であるということです。明るく楽しい学習を実現する為に、ともに励んでいきましょう。
教育改革ではなく、学習方法の新たなスタイルの創造と考えてください。
新たなスタイルなので社会に認知されるまで少し時間がかかるかもしれません。そんな時にはみなさんの力を借りて、一歩一歩前進していくしかありません。サポートティーチャーを代表とするアットマーク・インターハイスクールのスタッフ、主役である学習者自身、家庭での学習をサポートしてくださる親御さん、地域の活動でお手伝いいただける方々、インターネットで知識を提供していただける専門家の方々、いろいろな方たちの力を借りて、全力で新たな学習方法を創り上げていきたいと願っています。
一緒に夢を実現していきましょう。
本日はおめでとうございます。
「多様な人材とコミュニケーション」
多様な人材育成ってなんだろう?経団連が経済活性化をめざすには、教育改革が必要と発表した。経済界が欲しい人材は「基礎学力があり主体性とプロ意識がある人材」という認識は私も同感だ。また、多様な人材育成には多様な教育が必要ということであろうか「複眼的、複線的教育システム」が必要とも主張している。首相の指摘諮問機関の教育改革国民会議もスタートするという。
ただ、少し心配な点もある。学習者自身、そしてのその親はこうした教育改革への議論に参加しているのだろうか?
先日2つの会議に参加した。ひとつは日本国内。インターネットを教育に利用するという目的で現場の先生方が集まった会議だ。失敗談、成功談を共有することは確かに大切であろう。ただ、残念だったのは、そこには学習者の姿、その親の姿がみられなかったことだ。使いこなせない最新技術をそろえてあげるだけでは、教育的価値があるとは言えないのではないか。技術力に追いつけない不安になった先生方だけでは何も解決できないのではないか。
もうひとつは、米国内。ホームスクールを実践する家族とサポーター達の会議だ。赤ん坊をだっこしながら、講演を聞いているおかあさんの姿もそこにはあった。大学で教育学を実践している先生の話を真摯に聞いている小学生の姿もあった。そこには、学習することは自分の権利としっかりと自覚している人たちの姿があった。アクティブな学習者にはコンピュータは何も不安になる道具ではなかった。
もともと人間はひとりひとり異なった個性を持っている。そんなことは誰でもわかっている事実ではないか。多様な人材が必要な経済界も、教育界も普段から一人一人の人間の個性をしっかりとみてあげる時間を持つことを最優先に考えるべきである。複眼的、複線的以上に多様な人格を認めてあげることからスタートして欲しい。
私たち一人一人が、自分の学習のチャンスを勝ち取るために、立ち上がる時が来ているのではないか。ワン・ツー・ワンのマーケッティングを可能とする、つまり時間と場所の制約から解放してくれるインターネットをツールとして、学習者がいかにアクティブに教師、サポーター、コーチ、学習リソースといったものにアクセスできるかが、これからのポイントである。この強力なツールを使って、需要と供給をマッチングさせる為の、コミュニケーションを充実させることこそ、今本当に我々が必要としているものであろう。
参考)
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2000/013/honbun.html
「エデュケーション・スタイル」
ラーニング・スタイルという言葉ご存知ですか?アメリカでは学習者のラーニング・スタイルを理解することが、教育の現場の第一歩と言われてきています。テキストを読み、暗記して、テストで良い成績をあげる、という事が得意であるという、ラーニング・スタイルを持ち合わせた、学習者は現在の日本の教育にもマッチしていて、恵まれているということになります。一方、どうしても歩きながらでしか、物事を暗記できないとか、文字で書かれているものに関しては頭に入っていかないなど、現在の教育方法ではなかなかサポートに苦しむ学生も少なくありません。
私たちが、4月から開校するアットマーク・インターハイスクールは、学習者のラーニング・スタイルを一緒に見つけ出していこうと努力していくことからサポートがはじまります。管理型のエデュケーション・スタイルからサポート型エデュケーション・スタイルへ、またはクリエイティブ・エデュケーション・スタイルへとそのサービスの方法を多様化していきます。
今、ノースカロライナ州で開催されているホームスクールのカンファランスに参加する為に、米国に出張に来ています。移動の途中で見た、Heart ofMu sicという映画は、ハーレムの学校でバイオリンを教える非常勤講師と学生との交流のストーリーでした。実は今月2度目です。バイオリンを教え込むには管理型教育が良いのかどうか、この映画の講師は、管理型の押し付け教育を実践しているのではないかと、映画の前半は感じてしまいました。少し反感も持って前半は見ていたのですが、ラストは感動ものでした。
管理型であれ、サポート型であれ、最終的には、教師と学生が心と心でつながって、尊敬しあえる仲間になること、チームになることが、大切なのではないかと、つくづく考えさせられました。
ラーニング・スタイルと、エデュケーション・スタイル、みなさんと一緒に今後も考えていきたいと思います。
「壁」
「情報強者と情報弱者」のテーマ、とても興味深いですね。
私がインターネットを始めた時期は1994年の秋でした。個人向けプロバイダーであるリムネットがサービスを開始したのが秋だったと思います。その年の春、一台のマッキントッシュを購入したのをきっかけに、友人と狭い我が家で議論を展開していました。
「そうすると、インターネットに接続して、世界中の人とコミュニケーションを取っている家庭がある、一方で壁を一枚隔てたお隣さんは、まったくインターネットなんていう言葉さえも理解できずにいる。そうした差も生まれてくるね。1キロメートル四方の地域での活動しかしていないという人と、世界中を瞬時に飛び交ってしまう人が、一枚の壁の差だけで、同じ地域に存在するんだ・・・でもチャンスはみんなにあるんだね。」
「情報っていったい誰のものになるのだろう?」
「グーテンベルグの印刷術開発により起きた情報革命より大きな革命が起こるの?」
「圧倒的なローコストで情報の受信もできるんだね。」
「情報の発信ができるところが、最も注目すべきところではないの?」
「個人がテレビ局を持つってことだよね。」
夏から、秋にかけて、ニフティーのインターネットフォーラムに入り込んだり、リムネットの会議室に入り込んだりしましたが、なかなかすぐに役立つ情報が取り出せずにいました。その時のネットワークで活躍されていた専門家はとても怖かったですよ。特にネチケットを守らない人、自分で調べようとしない人には厳しい発言が飛び交っていましたね。
情報取得の壁は以外に高かったけど、すばらしいチャンスに恵まれるという期待感はその苦労も忘れさせてくれるものでした。
さて、2000年になった今、ますますインターネットの世の中は進歩しています。
当時議論していた友人は今はゲーム会社でiMode対応プロジェクトのチームリーダーに、私はいくつかの学校の情報担当の教師になりました。お互い、一人でも多くの方に、安価で良質な情報の受発信を享受できるような、プロジェクトに参加しているわけです。薄い壁によりかかりながら、狭い部屋で議論したあの夏が出発点になっています。
「学校教育とコンピュータ」
成田空港からこのメールを書いている。これから、教育分野でのコンピュータ利用の事例説明ということで、米国シリコンバレーにある企業に報告に行くという旅だ。飛行機に乗り込む直前に空港内の掃除道具を動かす為のソケットから電源を取りながら、コンピュータを動かしている。はやく、各席に電気のコンセントがついてくれないか願う今日このごろだ。どうやらアメリカン航空はエコノミーでも電源がついているという情報もあるのだが、今日はユナイテッドで搭乗ということで慌てている。
私は現在、とある中学でコンピュータの講師をしている。学生を2~3名のグループにして、一年間を通して、ウェッブ上に自分達で教材を作り出す授業を続けている。
この春からアットマーク・インターハイスクールで高校生にも似たような試みをしていきたいと思っている。中学は教室にいっせいに集まって授業を行うわけだが、今回は遠隔で実施する必要がある。完全な遠隔教育というわけだ。中学ではなかなか実現できないでいる、教材のプロ並みの完成度を目指せるのではないかと密かに楽しみにしている。
いろいろとチャンスが訪れるが、じっくりと腰を据えて、中学生であれ、高校生であれ、大学生であれ、これからの若い世代と一緒にコンピュータを使って、何かを創り出していく、クリエイティブな授業を作り上げていくことをこれからの最大のテーマとしたいと再度認識した。

